シェイクスピア


マクベスが自分一人の意思で、誰の手も借りずにダンカンを殺したとしたら、この劇の構造はそんなに複雑なものにはならなかっただろう。彼は魔女たちの予言を信じて自分が王にとって代わろうとした浅はかな男であり、そのために王を殺した殺人者であり、その罪の報いを受けて殺されざるを得なかった哀れな男であった、ということになるだけだ。

マクベス(Macbeth)はシェイクスピアの四大悲劇の中で最も短い。その分シンプルでわかりやすく、しかも迫力がある。テーマは殺人だ。王権の正統性のために行使される殺人だ。

シェイクスピアは道化を描くのが得意だったが、それに劣らず悪党を描くことにもたけていた。彼の描いた悪党の中で最大の悪党は無論マクベスだ。マクベスは悪党の中でもスケールが一回りも二回りも違う。マクベスは人間の中に潜む、つまり人間であればだれもが持っている、悪というものを形に表したもの、つまり悪の権化ともいえる。

シェイクスピアは悲劇「リア王」の中に、リア王の運命に劣らず悲惨なグロスターとその息子エドガーの物語を差し挟んだ。リア王の物語をメインテーマとすれば、これはサブプロットだが、そこで展開される運命は、リア王以上に凄惨なものだ。観客はグロスターの運命に救いがないことを見てとり、運命というものがもし存在するとしても、それが残酷な嘲笑でしかありえないことに、身震いするのだ。

リア王の道化はリア王が転落を始めるころに現れ、そして王が完全な狂乱状態になる頃にスウーッと消え去る。このことからこの道化を、リア王の分裂した意識の片割れと見立てることも可能だ。

リア王の物語は、リチャード三世に始まる歴史劇と同様に、王権を巡る物語ではあるが、こちらは自ら王権を手放した愚かな王の転落と屈辱の物語である。

ヤン・コットは「リア王」をグロテスク劇としてとらえなおした。グロテスク劇とは、ヤン・コットの定義によれば、「別の言葉で書き直された悲劇」ということになるが、悲劇と異なって、人間を超越した絶対者が意味をなさない世界を描いた劇、したがってカタルシスのない劇である。観客はそこに一切慰めを感じとることができない。ただただ救いのない結末に呆然とするほかはないのだ。

デスデモーナはシェイクスピアの造形した女性としては、両義的で複雑な性格を持たされている。彼女はマクベス夫人のように邪悪ではないが、自分の周りに邪悪な運命を招きよせる。一方では夫に対して従順でありながら、自分の周りの男たちを欲望でがんじがらめにしてしまうのである。

オセロの嫉妬

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オセロの並外れた嫉妬は観客を驚愕させずにはおかない。オセロは肌の色の相違を乗り越えてデスデモーナの愛を獲得し、人種差別の偏見を打破して彼女と結婚できたにかかわらず、ほとんどその直後にデスデモーナの不貞を疑うようになる。そしてその挙句に、狂乱状態となってデスデモーナを絞め殺すのだ。この間わずか二日しか経過していない。

イヤーゴの憎しみは並外れたものだ。それは当面はオセロへの憎しみを核にしているが、その延長でオセロの妻のデスデモーナを巻き添えにして破滅させ、またオセロの副官キャシオを罠にはめて破滅させる。こんなイヤーゴを、現代の観客は悪魔的な人物だと受け取るのだ。

シェイクスピアが造形した悪党の中でもっとも悪党らしいものを3人選べといわれたら、リチャード3世、マクベスとならんで、イヤーゴ(Iago)をあげることに、誰も異存はないだろう。むしろ、もっとも悪党らしい悪党、シェイクスピア劇に出てくる悪党の中でもチャンピオン級の悪党といってよい。

オセロ(Othello)はシェイクスピア劇の中で最も大きな成功を収めた作品だ。17世紀の冒頭に上演されて以来、エリザベサン時代に続くジャコビアン時代にも人気を博し、クロムウェルの時代にも生き残り、世紀を超えてヴィクトリア時代にはシェイクスピア劇の神髄と評価され、20世紀においても、偉大な作品だと考えられてきた。

「トロイラスとクレシダ」という劇には二人の道化が登場する。トロイ方のパンダロスとギリシャ方のテルシテスだ。彼らについてヤン・コットは、パンダロスを甘い道化、テルシテスを苦い道化と呼んでいる。

ホメロスの「イリアス」をはじめギリシャの英雄物語では、アキレスは常にギリシャの英雄として描かれてきた。彼は人間でありながら、神のごとき能力を持ち、トロイの戦士たちを次々と倒して、ギリシャの勝利に大きな貢献をする。

クレシダという女性は、シェイクスピアの作り出した人間像の中でも非常に複雑な性格をもっている。その複雑さはある意味でハムレットのそれに通じるものがある。シェイクスピアの描いた女性の殆どが類型化され単純な性格を持たされていることを考えると、これは非常に印象的なことといえる。

シェイクスピアの戯曲「トロイラスとクレシダ(Troilus and Cressida)」は、ほかの作品と比べるとユニークでつかみどころのない性格を持っている。歴史劇のようで歴史劇ではないし、悲劇かというとそうでもなく、また純粋な喜劇でもない。だがそれらの要素の幾分かは備えているといった具合に、ひとつのジャンルに収まらないのだ。

「十二夜」は、「お気に召すまま」と並んで、歌を非常に有効に使っている。「お気に召すまま」ほど多くはないが、節目節目で小歌をさしはさみ、劇にメリハリをつけている。その歌を歌うのは、ほとんどの場合、道化のフェステだ。彼は単なる道化でなく、魅力的な歌手でもある。

ヴァイオラに双子の兄がいることは、劇のはじめのシーンから暗示されており、また劇の中間でも、その兄であるセバスティアンが登場するシーンがあるが、彼の存在は、劇全体の進行にとって本質的な重要性を持たない。また性格らしい性格も持たされていない。ただ単に、ヴァイオラに瓜二つであることが、唯一の存在意義であるかのように。

シェイクスピアが創造した道化の中で、十二夜に出てくるフェステは最も完成された形態といえる。破天荒な騒々しさや、観客の笑いを買う脱線ぶりという点では、フォールスタッフやタッチストーンのほうが上かもしれないが、フェステには、道化についての古典的なイメージが、もれなく織り込まれているのだ。

十二夜と題する喜劇に、シェイクスピアはなぜそう名付けたか、いろいろな解釈が成り立つ。なかでも最も説得力があるのは、この劇全体が、十二夜に演じられるバカ騒ぎを現しているというものだ。

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