シェイクスピア


シェイクスピアの作品の中でも「ヴェニスの商人」The Merchant of Veniceは、最も論議を呼んだもののひとつだ。それはこの作品が、いくつものプロットから構成されていながら、それらが相互に余り関連しあっていないことによるが、それ以上に、題名のもととなったヴェニスの商人たるアントニオの影が劇の中では非常に薄いこと、脇役であるシャイロックの性格が非常に複雑であることなどによると考えられる。

「じゃじゃ馬馴らし」の中にはメイン・プロットとしてのペトルーチオとカタリーナの物語と平行して、サブ・プロットとして妹のビアンカをめぐる恋の駆け引きが繰り広げられる。

じゃじゃ馬馴らしの最後の場面でカタリーナが女たちに語りかける言葉は、問題が多いとされるこの劇の中でも最も問題が多いとされ、これまでに様々な議論を呼んできた。その多くはこの言葉に盛られた女性蔑視ともいえる内容を、果たしてシェイクスピアがどんなつもりで差し込んだのかということだった。

手の着けられないじゃじゃ馬娘がどのようにして調教されるのか、この劇の真髄はペトルーチオによるカタリーナの調教ぶりにある。観客はペトルーチオが手を変え品を変えカタリーナを手なずけていく過程を、お笑い寸劇を連続して見せられるような、気楽な気持ちで、しかも腹を抱えながら見ることとなる。それは当時の男たちにとって、気の荒い女房を思いのままに操るための、お手本のようなものであった。

「じゃじゃ馬ならし」の女主人公カタリーナは、まさにじゃじゃ馬のあだ名にふさわしく、劇の最初では手の着けられないあばずれ娘として描かれている。男の弱点を捕まえては口汚く罵り、あまつさえ近づく男を叩いたり蹴飛ばしたりして散々な目にあわせる。伝統的な笑劇におけるあばずれ女のイメージを最大限に引き伸ばした形だ。だからこんな女に近づこうとする男はいない。男たちはみな彼女を悪魔呼ばわりまでするのだ。

「じゃじゃ馬馴らし」 The Taming of The Shrew はシェイクスピアの作品の中でも、ひときわ論争の種が多いものだ。喜劇のうち最も早い時期の作品だが、彼の若さが盛り込まれているせいか、荒々しい笑いが逆巻いているような感じをさせる。

「ウィンザーの陽気な女房たち」には、メインテーマとしての女房たちの報復劇の傍らに、フェントンとアンの愛の物語が、サブテーマとして組み込まれている。この二人の愛は最後には結婚というかたちで実を結ぶが、そのことがこの劇を喜劇たらしめているともいえる。もし彼らの結婚がなかったなら、単なるドタバタ笑劇に終わってしまうところだ。

ウィンザーの女房たちによるフォールスタッフの懲らしめは、ついに亭主たちをも巻き込んでの大掛かりなものへと発展する。最初はフォールスタッフの無礼に対する個人的な反撃として始まった懲らしめだが、それが女房たちの個人的なうさばらしにとどまっている限り、たいした結果にはならない。そのことは女房たち自身がよくわかっていたことだった。

ウィンザーの二人の女房たちの計略とフォードの気違いじみた嫉妬のためにひどい目にあったフォールスタッフだが、彼の受難はこれだけではすまなかった。追い討ちをかけるように、第二第三の受難が待ち受けているのだ。

フォールスタッフへの復讐を誓った女房たちは、色目を使うと見せかけてフォールスタッフをフォードの家におびき寄せ、そこで一計を案じてひどい目にあわせようとする。茶番劇を演じて、フォールスタッフを洗濯物の籠に中に入り込ませ、それを召使に運ばせて、テムズ川に放り込もうというのだ。

「ウィンザーの陽気な女房たち」は、フォールスタッフが二人のブルジョアの女房たちにラブレターを、それもまったく同じ文面の色仕掛けの手紙を送り届けることから始まる。フォールスタッフは自分がグロテスクな肉体をして、とても女に惚れられるような玉ではないことを棚に上げて、女房たちが難なく自分になびいてくると自身満々なのだ。

「ウィンザーの陽気な女房たち」Merry Wives of Windsor は、シェイクスピアの喜劇の中でも独特な地位を占める。とにかく見て読んで、めちゃくちゃに面白い、理屈なしに楽しめる、劇の観客もシナリオの読者も、腹をかかえて笑えること請け合いだ、これまで人類の歴史の中で演じられてきた喜劇の中で、第一級の作品といってよい。

「ロメオとジュリエット」は恋愛劇という側面と同時に、死をテーマにした劇という色彩が強い。死の影は劇のはじめの部分にすでに姿を現し、二人の恋人の至福であるべき時間にも不吉な影を垂れ、最後には二人とも飲み込んでしまう。この劇を悲劇的なものにしているのは、この死という抗いがたいものなのだ。単なる恋愛劇なら、喜劇であっても十分なのである。

乳母の計らいで二人きりになれたロメオとジュリエットは、甘美な初夜を明かした後、朝を迎える。それは普通の朝ではない。朝日はいまや犯罪人になったロメオにとって、衆目に姿をさらすことを意味し、それは自身の死につながることを意味する。生きながらえるためには、ふたたび闇の世界へと逃げ去らねばならない。

初めて舞台に登場したときのジュリエットは、まだ幼さの残る少女であった。それがロメオとの恋に陥り、ロレンス神父の導きによって結婚の儀式を交わしてからは、成熟した女性へとドラスティックに変身する。成熟した一人の女としてのジュリエットは、女としての喜び、つまり性的な恍惚と結婚のもたらす豊穣を求めずにはいられない。

ロメオとジュリエットがバルコニー越に対面する場面は、この劇の、恋愛劇としてのハイライトシーンだ。二人の若い恋人たちが愛の言葉を交し合うこの場面は、おそらく人類が恋愛というものに関して抱いてきた、もっとも崇高な感情を盛り込んだものとして、未来に渡って引き継がれていくことだろう。

「ロメオとジュリエット」が超一級の恋愛物語となりえたのは、二人の主人公が交わす言葉が、至高の美しさを帯びているからだ。名高いバルコニーのシーンやともに夜を明かしたときのシーンをはじめ、二人の言葉の交わしあいは、詩的なリズム感にあふれている。

ジュリエットの乳母は、批評家泣かせのキャラクターだ。普通の劇において、女主人公の乳母というのは、主人公に影のようにつき従って、彼女の行く手を照らしてやったり、行き過ぎた行動にブレーキをかけたりするというのが、大方の役回りだ。

ロメオとジュリエットが単純な恋愛劇ではなくて、カーニバル的な笑いに満ちていることについては、先に述べたとおりだ。それは形の上では祝祭として、精神の面では卑猥な笑いとして現される。

ロメオとジュリエットは、不幸な愛を描いたロマンス劇として、シェイクスピアの初期の悲劇を代表するものだと受け取られてきた。たしかに愛し合う男女が、親同士の敵対によって愛の成就を阻まれ、死ぬことによってしか結ばれえなかったという話は、筋からすれば悲劇そのものだ。悲劇というのは、個人が運命の巨大な力に押しつぶされ、愛や希望を成就できないことを意味する近代的な概念だからだ。

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