シェイクスピア


「真夏の夜の夢」に出てくるキャラクターのうち、ボトムほど後世の観客に愛されたものはないだろう。彼がロバに変身するシーンは、オヴィディウスの変身物語のバリエーションといえるが、その奇想天外さが人々の想像力を刺激し、数多くの詩人たちが好んでテーマに取り上げた。

「真夏の夜の夢」に出てくる四人の男女、ヘレナ、ハーミア、デメトリウス、ライサンダーは、劇の前半ではそれぞれが不幸な恋に悩む若者たちとして悲劇的なタッチで描かれているが、劇の後半になると、妖精に魔法をかけられたことを割り引いて考えるとしても、俄然喜劇的な行動をするようになる。

真夏の夜の夢は恋の多重奏ともいうべき構成をとっている。劇全体の主催者とも言うべきテーセウスとヒポリタの婚姻の周囲に、オベロンとティターニアの駆け引き、ティターニアとロバの夢幻的な恋、ハーミア、ヘレン、ライサンダー、デメトリウスの四人の若者が繰り広げる錯綜した恋、そして職人たちがテーセウスの婚姻を祝うために行う劇中劇としてのピラマスとシスビーの悲恋物語、これらいくつもの恋が錯綜し、もつれ合うことで劇が進展していく。

ロバに変身したボトムをティターニアが愛するシーンは、真夏の夜の夢という作品の中でもっとも強烈なインパクトを持っている。ティターニアは夫のオベロンによって、意に従わぬ罰として怪物を愛するように仕向けられるのだが、それがなぜロバでなければならなかったのか。

真夏の夜の夢には、シェイクスピアの祝祭喜劇を彩っている道化は出てこない。そのかわりに妖精のパックが出てくる。中にはこのパックを道化と解釈する見方もあるが、パックは道化とはいえない。そうではなく悪魔なのだ。そうヤン・コットはいう。

シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」 A Midsummer Night's Dream は、長い間ロマンティック・コメディとして、恋人たちの愛を謳歌する祝祭感覚に満ちた劇だと考えられてきた。メンデルスゾーンの音楽が、そうした捉え方に拍車をかけた。これは男女の結びつきをおおらかに歌った、饗宴の舞台なのであり、人々はそれを見ることで、生きる喜びを改めて感じ取ることができるのだと。

エリザベス朝の演劇の多くは、結婚によるハッピーエンドを採用している。シェイクスピアの場合も例外ではない。この劇でも、イギリス王ヘンリー五世とフランスの皇女カトリーヌとの結婚を、両国の平和を磐石にするものとして終幕部におくことによって、それなりのハッピーエンドを演じている。

フランスに攻め入ったヘンリー五世の軍隊は、数の上では圧倒的に劣勢である上に、戦場は敵の本拠地という不利もあった。この不利を跳ね返すために、王は兵士たちの忠誠とその勇敢さを宛にしないではいられなかった。

味方の兵を鼓舞するときのヘンリー五世の言葉は、いまなおイギリス人の愛国心に訴えかける勇猛さにあふれているが、その言葉が敵に向けられるとき、勇猛さは獰猛さに変わる。勇猛果敢であることと獰猛無慈悲であることは人間の情熱の表裏をなしている、こうシェイクスピアは観客に訴えかけているようだ。

シェイクスピアはヘンリー五世の口から、兵士たちを鼓舞する勇猛な言葉を吐かせるが、それを受けとめる兵士たちを、一様に鼓舞される対象として描いているわけではない。兵士たちの中には、名誉より命が大事だと考えるものもいる。その食い違いをさらりと描くところが、シェイクスピアのたいしたところだ。

ヘンリー五世はイギリスの歴代の王の中でも、もっとも人気がある王といってよい。その理由は彼がフランスとの戦争において、数の上では劣勢であるのにかかわらず、兵士たちの勇気を鼓舞して勇敢に戦い、圧倒的な勝利を収めたことにある。国民国家の間で絶えず戦争がなされていたヨーロッパの歴史において、国民を勝利に導いた英雄は、その国の人々の記憶に、長く残り続けてきたのだ。

ヘンリー五世が即位後に最初に行ったことはフランスとの戦争である。戦争の大義名分は、プランタジネット家が女性の王統を通じて、フランス王としての権利を保有しているということだった。この主張はいささか強引にも聞こえることから、ヘンリー五世は古い法律によってそれを補強しようとする。劇の中でサリカ法と呼ばれるものである。

シェイクスピア劇の特徴のひとつに、劇の冒頭において、劇全体の展開を暗示するような言葉を、登場人物に言わせる工夫がある。初期の傑作リチャード三世においては、リチャードが冒頭で述べる言葉の中に、すでに劇の荒筋が込められていた。それはリチャードの意思として述べられる言葉なのだが、その意思が次々と実現されていくというのが、劇の展開そのものになっている。リチャードの言葉は、将来の予言そのものにもなりえているのである。

ヘンリー五世は、シェイクスピアの歴史劇の中では独自の雰囲気を持つ作品だ。他の歴史劇にあるような、王権をめぐる血なまぐさい闘争は、ここではフランスを相手に繰り広げられる国家間の戦争の場面へと変わっている。それはそれで血なまぐさい光景を伴ってはいるが、テーマはあくまでも愛国的な精神に彩られている。そんなところから、この劇はシェイクスピアの愛国精神を盛り込んだ作品だとする解釈がなされてきた。

シェイクスピアの歴史劇「ヘンリー四世」は、王子ヘンリーが即位してヘンリー五世となるところで終わる。それは次の歴史劇への橋渡しであるとともに、この劇を彩った道化フォールスタッフとの決別を意味する。

ヘンリー四世の第一部と第二部を通じての主要なテーマとして、ヘンリー王子の人間としての成長がある。王子は当然王となるべき身であるから、立派な王になるための遍歴の過程を描いた、道徳劇としての色彩を帯びている。

ヘンリー四世第二部においては、王の前には第一部におけるホットスパーのような強力なライバルが登場しない。王が老いて弱々しいのと同様に、いやそれ以上に反乱軍も脆弱なイメージに描かれている。彼らは一致して王に立ち向かうどころか、互いに猜疑しあい、そこを王の軍に付け入られる。王は戦わずして、反乱軍を鎮圧してしまうのである。

リチャード三世をはじめ、シェイクスピアの王権劇に出てくる王たちは、晩年にいたって、ライバルたちの影におびえるようになる。そのライバルとは、ボリングブルックにせよ、リッチモンドにせよ、若々しく力強い。彼らは現在の王の正統性に疑いを投げかけ、それを大義名分にしてやがては自分が王にとってかわる。

フォールスタッフは、「ヘンリー四世第一部」においては道化として、ヘンリー王子に付きまとっては、破天荒なことを次々と行い、この世の秩序を嘲笑する役割を果たしていた。ヘンリー王子はそうしたフォールスタッフの行動から、この世を相対化する見方を身につけることによって、単なる秩序の化身としてではなく、世界をトータルに把握する能力を獲得していく。そこが名誉や秩序一点張りのホットスパーとは、著しい対照をなしているのである。

フォールスタッフが登場したのは道化としてであるから、もともと老人あるいはそのひっくり返しとしての幼児としての性格はもっていた。老人も幼児も、一人前の人間としてはみなされず、この世のあるべき姿から逸脱したもの、つまり道化に通じるところをもっているからだ。

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