シェイクスピア


リチャード二世の前に立ちはだかり、彼の王位を簒奪するものはボリングブルック、後のヘンリー四世である。リチャードはボリングブルックの父親ゴーントの財産を没収し、それを財力にしてアイルランドに遠征するが、その最中にボリングブルックがイングランドに舞い戻り、反逆に向けて準備を始める。

シェイクスピアの劇には、脇役的な人物がふと漏らす言葉に、劇全体の雰囲気を凝縮したような重い言葉が散りばめられている。祝祭的な喜劇においては、それは主に道化によって発せられるのであるが、リチャード二世には道化は出てこない。そのかわりを、二三の脇役が努めるのだ。

リチャード二世は、リチャード三世と同じく、王権の簒奪をテーマにした劇である。しかし両者のスペクトルは正反対だ。リチャード三世は簒奪する側に焦点を当てているのに対して、リチャード二世は簒奪される側に焦点をあてている。この劇は一人の王が挑戦者によって王冠を奪われ、没落していくことの、歴史的必然性を描いた残酷な劇なのである。

シェイクスピアの王権劇においては、王権の簒奪者が安らかに死ぬことはない。あらたに王権を狙うものがライバルとして登場し、民衆の支持を集めながら彼に敵対し、やがては彼を滅ぼす。そうして新しい簒奪者が王権を手にする。しかしその新しい簒奪者も、やがては別の簒奪者によって王位を追われる。シェイクスピアにとって歴史とは、簒奪者の交代を意味しているのである。

シェイクスピアの王権劇においては、女たちは常に嘆き悲しみ、怒り狂っている。暴力が支配する世界にあって、愛するものを理不尽に奪われるのは、いつも女たちなのだ。

リチャード三世の中でもっとも印象深い場面のひとつに、リチャードがへイスティングの殺害を命ずるところがある。ヤン・コットはこの場面の前後を、シェイクスピア劇でももっとも優れた箇所として、入念に分析している。

クラレンスの死をリチャードから聞かされたエドワード王はびっくり仰天する。しかしリチャードがその犯人だとは露も疑わず、ただ自分が無力なために、このようなことが起こるのだと悩む。そんなエドワード王を、リチャードはひそかに殺すのだが、王の殺人場面は劇にはあらわれず、他の人の口をかりてほのめかすだけである。

リチャード三世の最初の殺人シーンは、リチャードの命を受けた二人の暗殺者たちがリチャードの兄クラレンスを襲う場面である。リチャードは自分が王位を狙うに当たって、エドワード王そのもののほか、王位継承権を持つ人々をことごとく殺してしまうのだが、まず次兄のクラレンスを殺すことによって、足がかりを築こうと考える。

リチャード三世に登場する女性たちのほとんどは、リチャードによって運命を翻弄され、常にリチャードの影におびえている。そんな中で、先王ヘンリー六世の皇后マーガレットのみは、自分の運命を受け入れることを拒絶し、リチャードに正面から立ち向かう。リチャードにとっては唯一、扱いにくいネメシズなのだ。

リチャード三世という劇は、冒頭のリチャードの独白の中で示された彼の野望が次々と実現されていくという構成をとっている。一人の男の野望が、世界全体を動かしていく原動力になっているのだ。その野望のなかで、リチャードが最初に実現させるのが、アンへの求愛だ。

シェイクスピアの造形した人物像の中でも、リチャード三世はもっとも強烈なイメージを付与されている。肉体的にはグロテスクな畸形として、精神的には無慈悲な悪の権化として。そうすることでシェイクスピアは、王権というもののもつ、グロテスクさと残酷さを、一人の人間の中で、目に見える形で表現した。

リチャード三世は、シェイクスピア劇の原点とも言える作品である。ルネッサンスの祝祭感覚を反映した一連の喜劇的作品を別にすれば、歴史劇と悲劇に通じる共通のテーマが、すべてここに盛り込まれている。そのテーマとは、歴史の巨大なメカニズムに突き動かされる個人の悲劇であり、歴史の宿命を背負った個人の生々しいあがきである。

ヤン・コットの労作「シェイクスピアは我らの同時代人」は、シェイクスピア研究にコペルニクス的な展開をもたらしたと評価されている。

シェイクスピア劇として今日に伝わる38篇の作品のうち、歴史劇 History として分類されるものが10篇ある。シェイクスピアはそれらの作品のすべてを創作活動の前半ともいえる、16世紀末の10年間に書いている。処女作の「ヘンリー六世第一部」を書いたのが1589年であり、一連の歴史劇を締めくくる作品「ヘンリー五世」を書いたのは1599年のことである。

シェイクスピアのソネット154 The little Love-god lying once asleep(壺齋散人訳)

  小さな愛の神キューピッドがまどろんで横たわり
  人の心に火をたきつける松明を傍らに置いていると
  純潔のうちに生きているあまたのニンフたちが
  軽やかな足取りで通りがかった

シェイクスピアのソネット147 My love is as a fever, longing still(壺齋散人訳)

  私の愛は熱病のようなもの
  病気をさらに養い育てるものを追い求め
  患いを長引かせるものを欲しがり
  変わりやすく病的な欲望を満たそうとする

シェイクスピアのソネット137 Thou blind fool, Love, what dost thou to mine eyes,(壺齋散人訳)

  盲目の愚か者 愛の神よ 私の目に何をしたのだ?
  ものを見ているのに 見ているものが見えず
  美とは何であり どこにあるかも知っていながら
  最悪のものを最善のものと取り違える有様なのだ

シェイクスピアのソネット130 My mistress' eyes are nothing like the sun(壺齋散人訳)

  我が恋人の目に太陽の輝きはない
  彼女の唇より珊瑚のほうがずっと赤い
  雪が白いとすれば彼女の胸の色は薄墨色
  彼女の頭には黒い針金が生えている

シェイクスピアのソネット129 The expense of spirit in a waste of shame(壺齋散人訳)

  恥ずべき放埓のうちに精神を費消すること
  それが淫欲というもの この欲望を遂げるために
  偽証 殺人 流血などの罪もいとわず
  野蛮で過激で卑猥で残忍 とても信用できぬ

シェイクスピアのソネット128  Oft, when thou, my music, music play'st(壺齋散人訳)

  時折君が音楽を、私に音楽を奏でるとき
  鍵盤は君の優しい指につれて動き回り
  弦は揺れつつハーモニーを発し
  私の耳は陶然となるのだ

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