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詩人の魂




2007年3月12日

吊るされ人のバラード:ヴィヨンの墓碑銘

フランソア・ヴィヨン” François Villon;1431-1463?”の生涯は、「無頼と放浪の詩人」という名に相応しく、さして長くもないと思われるにかかわらず、この世の秩序からはみ出たランチキぶり、喧嘩やちっぽけな犯罪、そして追放や懲役といった不名誉な事柄で満ち満ちている。

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2007年3月13日

アルチュール・ランボー:吊るされ人の踊り

アルチュール・ランボー“Arthur Rimbaud;1854-1891”ほど、フランソヴィヨンを深く理解し、その作風を自分の創作に取り込んだ詩人はいなかった。この早熟の天才が、どこから豊かなイマジネーションを得たかを探っていくと、そこにはフランソア・ヴィヨンの巨大な影響があったと思われるのである。

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2007年3月14日

奇妙な果実:ビリー・ホリデイの歌

今では伝説の歌手となった黒人女性ジャズシンガー、ビリー・ホリデイ ”Billie Holiday;1915-1959” は生涯黒人であることにこだわり続けた。ビリー・ホリデイが生きた20世紀前半、アメリカは人種差別の横行する社会であり、黒人は人間とはみなされなかった。南部を中心に、白人の黒人に対する差別は激しいものがあり、時には反抗する黒人をリンチにかけて吊るすことが、当然のことのように行われていた。

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2007年3月15日

フランソア・ヴィヨン:いにしへひとのバラード

フランソア・ヴィヨンの詩は、日本では鈴木信太郎の訳によって広く知られるようになった。岩波文庫にも収められているから、簡単に接することができる。分けても有名になったのが「昔の美姫の賦」である。「さはれさはれ去年の雪いまはいづこ」と繰り返されるルフランが、この詩人の神秘的なイメージを、日本人の間に形成するに一役買った。

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2007年3月26日

フランソア・ヴィヨン:生涯と作品

フランソア・ヴィヨン “François Villon;1431-1463?”は、ジャンヌ・ダルクがルーアンで火炙りにされた年に、パリで生まれた。フランスはまだ中世の世界を脱しておらず、国土も完全には統一されていなかった。こんなフランスにあって、フランソア・ヴィヨンは無頼と放浪の短い人生を送った。その作品は詩人の人生を映し出して、荒々しい妖気を放つ。闇を突き抜けた閃光のようでもある。

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2007年3月27日

老女の繰言(ヴィヨン:遺言の書)

フランソア・ヴィヨンの主著は、30歳ごろに書いたとされる「遺言の書」Le Testamentである。それ以前に書いた詩集にも、Le Testamentと名付けたので、区別するために、主著のほうはGrand Testament、以前のものをPetit Testamentと呼び分けている。日本語では、Petit Testamentのほうは、普通「形見分けの書」と訳している。

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2007年5月 2日

祈りのバラード:ヴィヨンが母のために作った歌

「遺言の書」第89節の後に、ヴィヨンは母のためにつくったバラードを載せている。ヴィヨンの遺言は、まず天使に宛ててなされた後、父とも仰ぐ叔父ギヨームに移り、そして母へと向かうのであるが、母のためにヴィヨンが残したものは、聖母ノートル・ダームに捧げられたバラードなのであった。

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2007年5月 3日

愛する女へのバラード(ヴィヨン:遺言の書)

母親の次に、ヴィヨンが選んだ遺贈の相手は昔の女。ヴィヨンの女遍歴については、色々と説がある。ヴィヨンのはじめて引き起こしたトラブルは女が絡んだものだったし、放浪の身となるにあたって決定的となった事件にも女がからんでいた。

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2007年5月 9日

死のロンド(ヴィヨン:遺言の書)

ロンドは「輪舞曲」と訳される。ルフランを規則的に配して、回遊式の体裁に仕立てたものだ。西洋音楽の一ジャンルとして古くからあった。ヴィヨンの時代にも、小唄の一つの形式として、広く行われていたらしい。

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2007年5月10日

パリ女のバラード:フランソア・ヴィヨン

今日、パリジェンヌの話し上手は、世界中の女性の中でもとりわけ洗練されているとの評判であるが、既にフランソア・ヴィヨンの時代からそうであったらしい。ヴィヨンは、そのパリの女たちの舌先の見事さを、半分揶揄混じりで讃える歌を作っている。「遺言の書」第144節の後にある「パリ女のバラード」である。

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2007年5月16日

墓碑銘とロンド(ヴィヨン:遺言の書)

フランソア・ヴィヨンの詩集「遺言の書」のハイライトは、ヴィヨンが自らのために作った墓碑銘とロンドである。遺言がテーマなのであるから、自分の手で自分自身のための墓碑銘を書いておきたかったのであろう。墓碑銘にロンドを添えたのは、詩人としての矜持からと思われる。

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2007年5月17日

慈悲のバラード(ヴィヨン:遺言の書)

フランソア・ヴィヨンの詩集「遺言の書」は、186節の八行詩と20篇の独立の詩からなっているが、その最後に近い部分、「結びのバラード」の一つ手前に置かれているのが、「慈悲のバラード」である。

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2007年5月23日

逆説のバラード:フランソア・ヴィヨン

フランソア・ヴィヨンは、大小のテスタメント(「形見分け」と「遺言の書」)のほかに、雑詩篇と呼ばれる独立の詩篇十数編を残している。最も有名なものは「吊るされ人のバラード」である。そのほかに「逆説のバラード」とか「矛盾のバラード」とかいった、挑発的な題名の作品がある。

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2007年5月24日

矛盾のバラード(ヴィヨン:ブロアの歌合せ)

フランソア・ヴィヨンは、1456年に引き起こしたあるトラブルがもとでパリにいることができなくなり、諸国を放浪するようになった。その旅の途中、文芸の保護者で名高いシャルル・ドルレアン公を頼り、ブロア城に立寄ったことがあった。

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2007年5月30日

書簡のバラード:フランソア・ヴィヨン

フランソア・ヴィヨンは、シャルル・ドルレアン公と別れブロア城を出た後も放浪を重ね、コキャール党と呼ばれる盗賊団の一員となったようだが、1461年に捕らえられて、マン・シュル・ロアールの監獄にぶち込まれた。

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2007年5月31日

フランソア・ヴィヨンの心と身体の論争

1462年の暮、フランソア・ヴィヨンは絞首刑の判決を言い渡された。昔引き起こしたナヴァールの事件を蒸し返されたためだとされている。すっかり観念したヴィヨンは、このとき「吊るされ人のバラード」を書いて、死に備えたこともあった。

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ヴィヨンの悪魔狂言:パンタグリュエル物語

フランソア・ラブレーの大年代記第四之書「パンタグリュエルの物語」は、フランソア・ヴィヨンの愉快ないたずらについて紹介している。(以下テキストは、渡辺一夫訳、岩波文庫版)

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2007年6月 6日

アルチュール・ランボー:生涯と作品

アルチュール・ランボー Arthur Rimbaud (1854-1891) は、普仏戦争とパリコミューン前後のフランスに彗星のように現れ、光り輝くような作品を残して、あわただしく文学史の表舞台から去っていった。その文学的活動は数年にとどまり、しかも20歳を前にして筆を擱いたにかかわらず、その作品群は独特の香りに満ち、後の詩人たちに巨大な影響を及ぼした。フランス文学史上、孤高の光を放った稀有の詩人といえる。

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2007年6月 7日

夏の感触:アルチュール・ランボー初期の詩

早い時期から天才を示したアルチュール・ランボーは、15歳の頃から今日に伝わる優れた詩を書き始めた。1870年の1月に、ジョルジュ・イザンバールがランボーの通う中学校に、修辞学の教員としてやってきて、ランボーを本格的に指導したことが、彼の才能に火をつけたようだ。

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2007年6月13日

音楽につれて:ランボー、ブルジョアを皮肉る

アルチュール・ランボーの詩「音楽につれて “A La Musique”」は、ランボーがイザンバールにあてた1870年の手紙の中に収められているから、おそらくその直前に書かれたのであろう。

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