知の快楽


コペルニクス的転回と言う言葉があるように、コペルニクス (1473-1543) の地動説が科学の発展に及ぼした影響には大きなものがあった。だがコペルニクスはそれをひとつの仮説として提出しただけで、命をかけて守るべき信念とは考えていなかったらしい。彼はこの説がローマ教会を刺激することを恐れて、生前には大々的に吹聴することをしなかったし、地動説を記述した書物「天体の回転について」が出版されたのは、その死の直後だったのである。

宗教改革の結果生まれてきた新教の各派は、反カトリックという旗印のほかは、あまり共通したものを持たなかった。まして、統一した宗教組織を形成しなかった。ドイツを中心にした北ヨーロッパでは主にルター派が、スイスではツヴィングリやカルヴァンの教義が、そしてイギリスでは国教会がそれぞれ並び立ち、そのほかにも再洗礼派などの小さな宗教運動がばらばらに分立するといった具合だった。

マルティン・ルター Martin Luther (1483-1546) が始めた宗教改革は、ヨーロッパの精神史上において、巨大な意義を持つ出来事だった。影響の範囲からすればルネサンスの比ではない。ルネサンスが一部の知識人を中心としたサークル的な運動にとどまったのに対し、宗教改革は広範な民衆を巻き込み、巨大なうねりとなって社会を変えていった。特に北部ヨーロッパにおいては、宗教改革は、社会や政治のあり方、経済活動の変動とも密接に結びついているのである。

パラケルスス Paracelsus (1493-1541) は、ルネサンス期に活躍した神秘思想家であり、かつ錬金術師であった。パラケルススという名は、本名であるテオフラストゥス・フォン・ホーエンハイムのファミリーネームをギリシャ語風に言い換えたとも、あるいは、古代の医学者ケルススを超えるという意味を含ませたとも言われる。

トーマス・モア Thomas More (1478-1535) は、「ユートピア」の著者として広く知られている。この本は人間にとって究極の世界といえる「理想郷」を描き出したものだ。テーマからして時代を超越しており、ルネサンスのイメージとは直接結びつかないようにも思えるが、しかしルネサンスの時代であったからこそ生まれた書物ともいえる。

アルプス以北の北ヨーロッパにルネサンスの動きが広がったのは、イタリアよりはるかに遅れてであった。しかもそれはやがて始まる宗教改革の運動に飲み込まれていくので、期間としては短いものではあったが、イタリアとは異なった、独特の様相を見せた。中世以来の民衆文化と深く結びつき、民衆文化の持つエネルギーをカトリック教会の束縛から解放したという側面である。

様々な学者や研究者によって書かれた古今のヨーロッパ思想史の書物は、ルネサンスを代表する思想家として、必ずといっていいほど、ニコロ・マキャヴェリの名を筆頭にあげている。これは、この時代に彼をしのぐほどの優れた思想家が現れなかったという事情にもよるが、他方では、彼ほどルネサンスという時代の精神を体現していた思想家はいないという事情もある。

ルネサンス時代は、文学、芸術、建築などの分野で偉大な天才を輩出したが、哲学思想の面では大した人物が出ていない。それでも時代を彩る思想的な流れはあった。人文主義といわれるものがそれである。

ルネサンスという言葉は、一時期の日本人にとっては光明にあふれた言葉だった。それはヨーロッパを中世の暗黒から開放し、近代の偉大な文明を用意した幕開けの光として、受け取られた。封建的な残渣を色濃く残し、また無謀な侵略戦争に明け暮れた上、完膚なきまでに叩きのめされた戦後の日本人にとって、西欧文明は改めて学び取るべき模範として意識されたのであるが、その西洋文明がルネサンスを契機にして花開いたことを知った日本の知識人は、この言葉をお経の題目のように唱え始めたものだった。

ウィリアム・オッカム(またはオッカムのウィリアム William of Occam 1290?-1349?)は、ドゥンス・スコトゥスと並んでスコラ哲学の最後の世代を代表する学者である。オッカムとは彼の生まれた土地の名である。イングランドのサリー州にあったともいい、ヨーク州にあったともいう。当時聖職者の名を、その出身地によって呼ぶことが広く行なわれていた。聖トマス・アクィナスも、やはり父親の知行地アクィノが自分の姓名になっている。

スコラ哲学を体系化したのはドミニク派の修道僧でもあったトマス・アクィナスであるが、ドミニク派と並んで勢力のあったフランチェスコ団は、さまざまな点でトマスの説と対立し、互いに論争しあっていた。フランチェスコ団に属する修道僧たちは、創設者アッシジのフランチェスコの衣鉢をついで、トマス・アクィナスとは一風変わった説を展開していた。それは簡単に言うと、トマスの主知主義に対して、実践や人間の意志をより強く押し出すというものであった。

トマス・アクィナス (1225?-1274) は中世最大のスコラ学者であり、キリスト教神学の歴史上もっとも重要な人物である。その業績は、神の存在の証明を中核として、神学、哲学、倫理学、自然学にわたり、中世人にとっての知のあらゆる領域をカバーし、カトリック的世界観を壮大な規模で展開した。

カトリック教会内部に修道僧からなる修道会の組織を立ち上げるきっかけをつくったのは、4世紀の聖ヒエロニムスであった。以後修道会はカトリック教会にとって中核的な組織を形成するようになり、その中から多くの聖職者を輩出した。修道会はカトリック教会を、教義と実践の面で支えてきたともいえる。

長い期間にわたるヨーロッパ中世を思想史的な面から特徴付けるとすれば、キリスト教、それもカトリックの教義が支配した時代だったということができる。カトリックの正統教義の前では、それと相容れない考え方は、民衆文化も含めて、すべて異端のレッテルを貼られて迫害された。このカトリック教義を学問的に纏め上げたのが、スコラ哲学といわれるものである。

アウグスティヌスはキリスト教神学を深化発展させる過程で、ペラギウス派をはじめさまざまな教説と論争した。その際彼は、聖書を深く読み解き、そこに書かれたことを己の論証のよりどころとした最初の人であった。だからといって、彼の思想に不合理な部分が多いということではない。中には近代以降の思想にも通じる普遍的なものもある。

聖アウグスティヌス(354-430)は、聖アンブロシウス、聖ヒエロニムスとともに4世紀のローマ帝国に生き、当時勃興しつつあったキリスト教とカトリック信仰に対して、礎石を築いた人である。この3人に後の世代のグレゴリウス法王を加えて「西方教会の四博士」と呼んでいるが、それは彼らがカトリック教会の確立に果たした巨大な功績をたたえてのことであった。

プロティノス(204-270)は、ギリシャの古典哲学の最後の巨人であったともに、それ以後に続くキリスト教的な世界観にとっては、端緒となる考え方を提供した思想家である。プロティノスが展開した新プラトン主義は、「一なるもの、精神、霊魂」の三位一体の形而上学に帰着するが、それはキリスト教における「父と子と精霊」の三位一体の神学に対応し、プラトンが教える永遠のイデアと神の永遠性の観念を橋渡しするものであった。

エピクロス (BC341-BC270) は、ストア派の創始者ゼノンとほぼ同じ時期に生まれ、アテナイを拠点に活動した。彼の創始した学説は、ストア派の説と並んでヘレニズム時代の思想を代表するものとなった。いずれも、世界帝国の中で相対的に地盤沈下した個人の生き方に焦点を当て、人間にとってよき生き方とは何か、個人の幸福とは何かについて考察した。ストア派が禁欲に重点を置いたのに対して、エピクロスの徒は快楽こそが幸福の源泉と考えたのであった。

ゼノンに始まるストア派の哲学は、ヘレニズムからローマ時代にかけて、もっとも広範な影響力を持った思想的流れである。キケロやセネカ、エピクテトスといったローマ時代を代表する思想家たちはみなストア派の哲学者であるし、哲人皇帝として知られるマルクス・アウレリウスも、政治上の実践を別にすれば、ストア派の思想を展開し実践しようとした人物だった。

感覚がもたらすものへの懐疑論は、長い間ギリシャ哲学にとって難点の一つであった。そこでパルメニデスは感覚の世界を「あらぬもの」として、その存在を否定したし、逆にソフィストたちは、人間の感覚は人によってそれぞれ現れ方が異なるのであるから、世界には絶対的な真理などはありえないと主張した。プラトンは感覚のもたらすものを、イデアの似姿だといって、それに一定の場所を認めたのであるが、その説はアリストテレスによって、単なる比喩に過ぎないと批判された。

Previous 1  2  3  4  5




アーカイブ

Powered by Movable Type 4.24-ja

本日
昨日

最近のコメント

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち74)知の快楽カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは71)読書の余韻です。

次のカテゴリは76)美を読むです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。