両国駅は上野駅とよく似た外観をしている。どちらも旧鉄道省建築課の設計になるときけば、なんとなく納得できる。竣工したのは昭和4年だから、昭和7年竣工の上野駅より先輩格だ。
両国駅は上野駅とよく似た外観をしている。どちらも旧鉄道省建築課の設計になるときけば、なんとなく納得できる。竣工したのは昭和4年だから、昭和7年竣工の上野駅より先輩格だ。
丸の内仲通りの変貌は数年前から始まったらしい。西暦2000年を記念してミレナリオなるイベントが行われた頃がその転機となったようだ。最近丸ビルが新装されたことがこの流れに拍車をかけたようで、この地区には次第に一般の客が集まるようになり、それをあてこんで高級な店が進出するようになったとのこと。特にこの一二年は欧米のブランドショップが争って進出するようにもなり、第二の銀座になりつつある。
伊勢源とは通りを隔てた反対側は淡路町である。その一角、伊勢源の斜向かいに神田やぶそばがある。やぶそばの名を冠した店は関東各地に分布し、更科と人気を二分しているが、この店はその中の総本舗とでもいうべきものである。やぶそばの由来については、司馬遼太郎が「街道を行く」シリーズの中で考証しているので、読んだ方も多いだろう。それ以来この店はすっかり有名になり、いまでは日本中からそば好きが押しかけて来るそうである。
伊勢丹といえば古くから新宿のランドマークともいうべき存在だった。高度成長が始まる前からこの地にでんと聳え、多くの買い物客を集めたものだ。まだエスカレーターが珍しかった頃、伊勢丹に来れば乗ることができるというので、近隣の小僧たちが集まって来たものである。
新港橋の袂から山下公園の方向へ古い高架橋がかかっているのをご存知だろうか。普段は見過ごしてしまう程目立たないのだが、これがなかなか、渡って面白い橋なのである。もともと汽車道の一部として作られたそうで、今でもレールの遺物らしきものが埋め込まれている。かつては、この陸橋の上を、貨車が煙をはきながら走っていたと思えば、何となくうれしいような気分になるではないか。
両国橋が最初に架けられたのは万治三(1660)年、千住大橋がかけられてから六十数年後のこと、隅田川では二番目の橋であった。当初は単に大橋とよばれていたが、武蔵、下総を結ぶことから両国橋と呼ばれるようになった。明暦の大火を契機に、防災上の目的から幕府も架橋を決断したといわれる。この橋ができて以後、本所、深川の発展が始まる。
かつてフランスの批評家ロラン・バルトが東京を批評してこういったことがある。
「東京にも中心というものはある。だがそれは巨大な無である」
西洋の共和国の市民から見た東京の中心は、一般市民の目には見えない別格の存在として映ったらしい。
銀座を象徴する景観といえば四丁目の交差点に立っている服部の時計台だろう。昭和の初め頃から立っているので、文学作品や映画の中に数知れず登場した。荷風散人も尾張町辺を散策したついでにこの時計台を見上げるのが日課だったに違いない。現在は和光と名を変えているが、これは別の会社ではなく、服部の一部門が独立したものの由。
白地を有効に使った絵を引き続き描いてみた。今回はワインボトルを背景にして、ピンクのワンピースを着た少女である。
白地を多く残すことは、手抜きあるいは未完成と受け取られかねないので、入念な注意が必要だ。この絵の場合には、全体に簡素な色使いをしているせいで、淡彩画法の一種くらいに受け止められることが多いのではないか。
前回に続いて、白地を生かした絵を描いてみた。こうしてみると、画面の白い部分は光のあたった明るい場所を表現しているように見える。白地の利かし方としては、もっとも有効な方法だろうと思う。
水彩画の場合には、白く現したい部分は、その部分を絵の具で塗らずに紙の肌地を残すことで表現する。ハイライトの部分などは特にそうだ。そうすることによって、透明絵の具の特性を生かした表現ができる。
先日豊穣たる熟女たちと千鳥が淵に花見をした記事を書いたが、その折に数年前に描いた水彩画を添付した。だが色使いがごちゃごちゃとしているようで、どうも気に入らない。そこで描きなおしてみたのが、この絵だ。
筆者が船橋の北の郊外塚田に引っ越してきたのは、今から10年ちょっと前のこと。当時はまだあちこちに畑がいっぱい見られた。このあたりは東京の近郊農業地帯として、さまざまな野菜を栽培しているものが多く、なかでも白菜やキャベツの畑が目立った。
川越の一番街を歩いていたら何ともミスマッチな光景に出会った。古風な作りの店蔵を前景にして、ドーム式の尖塔を戴いた洋館が覆いかぶさるようにして立っているのである。
桐生本町通りの有隣館から天満宮に至るまでの南北五六丁の間は、両側に古い街並が比較的よく残されている。表通りには蔵作りの商家が点在し、通りに垂直に交わる多くの横丁には、鋸屋根の織物工場やら古びた民家やらが立ち並んでいる。
川越駅より北の方向へ二キロほど行くと一番街という通りに出る。南北数百メートルのこじんまりとした通りであるが、ここがかつての古い街並が残されている所である。名高いだけあって、古びた土蔵造りの店舗が数多く立ち並んでいる。とりわけ北側の札の辻付近は最もよく保存されている地域で、土蔵群がかなりな長さにわたって連坦している。
栃木市の市域の西部に、巴波川の水を分った小さな水路がある。県庁堀と呼ばれている。その所以は、明治の初期ここに栃木県庁が置かれていたことにある。当時各県の県庁は旧藩の城郭内に置かれることが多かったが、商都であった栃木には城郭などなかったため、わずかに堀を穿ってそれらしき権威を演出したのかもしれない。
川越といえば店蔵の立ち並ぶ古い街並と時の鐘でよく知られている。佐原と並び関東地方では歴史的建造物が大規模に残っている数少ない街のひとつだ。その名声は全国に伝わっているようで、いつか四国を訪れた際、内子宿を案内してくれたガイドさんもその名を知っていたほどだ。
水彩画を始めてかれこれ10年になるが、まだ自分の描いた絵を額に入れて、自分の家の玄関を飾るまでに至っていない。なかなか納得できるものが描けないでいたのだ。それがまあ、そろそろ納得してもいいかな、と思える作品にやっとたどりついた。
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