政策軸には大きくわけて、内政にかかわる部分と外交にかかわる部分とがある。内政の最大課題は経済政策であり、外交の最大課題は国の安全保障である。戦後日本政治は、この二つの大きな政策軸を巡って、政党と疑似政党としての派閥が、それぞれに異なる政策軸を掲げ、政権の獲得を競い合ってきたと、単純化していうことができよう。
55年体制の担い手であった自民党と社会党を政策において区別したものは、安全保障をめぐる基本的な考え方の相違だった。自民党は基本的に対米協調路線を採用し、社会党は反米の立場から非武装中立を主張した。これが、米ソ冷戦を反映していたことは言うまでもない。自民党はアメリカの核の傘に身を寄せることで、ソ連からの脅威に備え、アメリカによる安全保障を前提にして、経済発展に邁進したわけである。一方社会党は、アメリカとの同盟がかえって戦争に巻き込まれる危険をもたらすのだと主張し、国民の間に残っていた強い反米感情に訴えて、非武装中立を主張したわけであろう。憲法9条を前提とし、しかもアメリカとの同盟をも拒絶するなら、選択肢は非武装中立しか残らないわけだ。
一方、経済政策の面では、自民党も社会党も大した差はなかったといってよい。社会党は基本的には大きな政府論を展開していたのだが、自民党もほうもそれについて大した異存はなかった。すさまじい勢いの高度成長が、大きな政府を可能にしたからである。
自民党内部の派閥についていえば、経済政策は似たり寄ったりだったといってよい。高度成長期においては、財政均衡を気にせずとも、強気の経済運営ができた。そうした中で、健全財政に比較的にこだわる派閥(池田派の流れ)と、積極財政を目指す派閥(佐藤派の流れ)との差異はあったが、そんなに深刻な相違にはならなかった。一方外交については、対米協調を旨としたハト派路線(池田派、佐藤派の流れ)と自主外交を重視する路線(福田派、中曽根派の流れ)が区別されたが、これも深刻な対立軸とはならなかった。
内政、外交双方にわたって政策軸の相違が明確になるのは、1980年代以降のことである。この時期、ソ連圏や中国においてすさまじい変革が進行し、冷戦の構図が過去のものになっていった。また、サッチャリズムやレーガノミックスと呼ばれるような、新自由主義的な経済政策が台頭してきた。それは、先進国の経済が成熟するとともに、グローバリズムの動きが強まってきたことを反映した動きだったということができる。
日本もこうした流れに沿ったかたちで、政策軸の対立が表面化してきた。中曽根政権は、そうした対立を顕在化させ、日本政治にとって、それまでとは異なる新たな政策セットを提示した政権だったと言える。自民党としては、それまでの保守本流と言われた路線にかわって、非主流的だった考え方が浮かび上がってきたわけである。それは内政においては小さな政府を志向し、外交においてはハト派からタカ派への転換であった。
もっとも中曽根自身は、日本を浮かぶ空母にするとはいいながら、アメリカからの自立を目指したわけではなく、抽象的な愛国心を内実にする中身の薄い、中途半端なタカ派路線だったといわねばならない。
1990年代初期における細川政権の成立が、55年体制を根底から揺るがした。これ以降日本政治は全く新しい時代に突入したといってよい。
まず社会党が消滅した。それを仕掛けたのは小沢一郎だと大嶽氏はいう。小澤は、自社対立の55年体制に替る新しい体制を作りたいと考えた。それは、二つの大きな保守政党がかわるがわる政権を交代するというアメリカ型の2大政党制を日本にも根付かせようというものだった。
小澤自身は、小さな政府と国際貢献を重視する外交を主張したという点で、従来の自民党における保守本流の考え方とは異なった政策軸を打ち出した。レーガン流の新自由主義とも親和性を持っている点で、アメリカの共和党のような政党を目指していたといってよい。
しかし、小沢は自民党に対抗できる政党を作る過程で、あまりにも考え方の異なった勢力を取り込み過ぎた。社会党の落ち武者といった連中から、菅のように市民運動から出発した連中、そして旧日本新党やさきがけの流れなど雑多な連中を集めて、最後には民主党と言う政党を作ったわけだが、これが一枚岩とはいえない、つまり近代的な政党の体をなしていないことが、ほかならぬ小沢自身が民主党から脱退するという形で示されたわけである。
一方自民党のほうは、森以降福田派の流れが政権を握り、しかも小泉のような政治家が現れたことで、従来の保守本流の政策軸に変化が起きた。一言でいえば、新自由主義への転換である。これは小沢が主張していたことを、何よりも小沢を憎み続けてきた自民党が取り入れたという皮肉な事態なわけだ。
こうしたわけで、現在の各政党の政策軸は、かなり混乱した状態で交差しあっている。
筆者などは、日本の政党はもうひと波乱したうえで再編されるべきだと考えている。その結果、比較的保守的な政党と比較的社会民主主義的な政党とが対峙するような構図が出現することがベターだと考えている。ここでいう保守的とは、健全財政とタカ派的な外交政策、社会民主主義的とは、大きな政府とハト派的な外交の組合わせをさしていう。
とにかく今の政党を見ていると腑に落ちないことばかりだ。自民党は健全財政を言ったかと思えば公共事業予算の復活を大合唱するし、民主党はマニフェストを放り投げて国民からうそつき呼ばわりされる始末だ。もっとすっきりして欲しい。そう願うのは筆者のみではあるまい。
関連サイト:日本の政治
この書は、西暦1857年から1937年までをカバーしている。開国を巡って揺れていた安政4年から、支那事変が勃発した昭和12年までの80年間である。この80年間を氏は、改革、革命、建設、運用、再編、危機の諸段階に区分し、それぞれの時代をどのような個人或は勢力が、日本という国の主導権を巡って相争ったかを、生き生きと描き出している。そして幕末の改革に始まった日本のこの80年間の歴史が、一通りのサイクルをたどった後、音を立てて崩壊し、次のサイクルへとつながっていく、そのダイナミズムに焦点があてられている。
この80年間の初頭を画する英雄は西郷隆盛である。幕末から明治維新への流れはひとえに西郷隆盛の動きによって説明することができる。なぜなら明治維新とは西郷隆盛の描いた戦略が実現されていく過程なのであり、西郷隆盛こそが日本を近代に導いた決定的な人物、つまり英雄なのだと、氏は喝破するのである。西郷隆盛に比すれば、いかなる人物、たとえ明治天皇であっても、端役に過ぎない、というわけである。
その証拠に、西郷が島津久光によって西南の離島に幽閉された5年ばかりの間には日本の歴史は停滞し、彼が解放されて活動を始めた途端に再び前へ向かって動き始めたのである。西郷のいないところでは、日本の歴史は一歩も進まなかった、これは疑うべからざる事実だ、そう氏は断言するのである。
では、西郷が描いた戦略とはなんだったか。一言でいえば、幕府打倒である。討幕を目指す勢力であれば、攘夷だろうが、開国だろうが、大きな差はない。討幕の旗印の下で一致団結して徳川幕府を倒し、その後に新しい政府を作る、その政府のあり方については、色々な議論があるだろうが、とにかくどんな議論も幕府を倒さない限り何の意味も持たない。それ故、みんなで幕府打倒に立ち上がろうではないか、こういうごく単純なものだったのだ。
幕末には、長州の尊王攘夷論あり、土佐の公武合体論あり、有力幕閣の開国論あり、様々な意見があった。その中で徳川幕府を打倒しようと終始一貫して主張したものは西郷だった。その終始一貫した姿勢が長州や土佐をはじめ、さまざまな運動体の信頼を得たがゆえに、西郷を中核として怒涛のような倒幕運動が結成された。その過程で、土佐の坂本竜馬が一定の役割を果たした事実もあったろうが、西郷の偉大さに比べれば何ほどのものではない。幕末・明治維新史は西郷と言う偉人の周りで回転していた、そのように氏は言うのだ。
慶応三年十月の大政奉還は、徳川政権が終わりを告げて、天皇を中心とした新しい体制の始まりを告げたのであったが、西郷はそのことに満足しなかった。なぜなら大政奉還後に成立する新しい権力体制には、徳川氏も一諸侯として参加することが認められており、したがって、大政奉還後にも、徳川氏の意向が反映される政治が予想されたからだ。西郷にはそれでは改革がなされたとはいえなかった。徳川氏は完膚なきまでに粉砕されなければならなかったのだ。それ故西郷は、同年の12月に王政復古の号令をかけて天王親裁のもとで徳川氏の意向を削ぎ、更に徳川氏には「辞官納地」を迫るなど、露骨に挑発する動きに出た。翌年正月に始まった戊辰戦争は、徳川方が西郷の仕掛けた罠にはまったことの結果だったのである。
戊辰戦争では、官軍の実態をなしたものは薩摩、長州、土佐の藩兵であった。その官軍に比べ、当初幕府軍の方が圧倒的に優勢だった。にもかかわらず、官軍が勝利した。官軍の方がずっと統制がとれており、武器の性能もよかったからだ。官軍は上野の山にこもった徳川方の軍を粉砕した後、東北へと攻め入っていった。会津戦争はそのヤマ場となった戦いである。
会津戦争と言えば、西郷自身が指揮したように思われがちだが、西郷はその現場にはいなかった。現場で指揮を執っていたのは、薩摩藩では伊地知正治、土佐藩では板垣退助である。全体の戦術は板垣が指揮したということになっている。それ故官軍に敗れて塗炭の苦しみを舐めることになった会津の敗残兵が西郷を恨むのはややお門違いで、彼等は板垣をこそ恨むべきだったということになる。
戊辰戦争が終わり、これからいよいよ近代国家日本の形成という段になって、西郷は征韓論を唱えることになる。この時期になぜ征韓論なのか、筆者には長いこと謎であったのだが、その謎の一端を板野氏がほどいてくれた。軍隊というものの一種の生理現象を、西郷が代弁したというのだ。
先述のように、西郷が中心になって作った官軍は、もともとは、薩摩、長州、土佐の藩兵たちだった。彼らは後に藩兵の身分を捨てて官軍として再編されるわけだが、自分たちこそ御維新を推進した最大の功労者だとの誇りがあった。それゆえ、一方では自分たちの功績が正当に報いられることを求めるとともに、自分たちの活躍の場が引き続き与えられることを望んだ。
ところが、御維新が成就され国内が平定されると、国内には向かうべき敵がいなくなった。これでは軍隊といっても、張子の虎と同然だ。軍隊は戦をして初めて軍隊と言える。
国内に敵を求めることが不可能ならば、国外に敵を求めよう、そう考えるのは理の赴くところと言うべきである。今や敵を求めて功を焦る官軍は、自分たちの代弁者たる西郷を突き上げて、海外に戦場を求めるようになった、それが征韓論として現れた、氏はそういうのである。
なるほど、そういう見方もあったのか、と感心した次第である。
征韓論は実現しなかったが、それは征韓論に国際的な大義名分がなかったからだ。それに対して台湾出兵が実現したのは、それなりの大義名分があったからだ、と氏は言う。明治4年琉球の島民54名が台湾で殺害されたなどの事件があったが、日本政府はそれを主な理由に台湾に出兵した。理屈は、日本国民である琉球島民の保護というものであった。それは清国や国際社会に対して、琉球が日本の一部であることを公然と主張するための格好の理屈として使われたわけなのだという。
この出兵は大久保利光によって遂行されたのであるが、興味深いのは、軍艦6隻に分乗した兵士6000人のうち3600人には、西郷配下の兵士が多数含まれていたことである。大久保にとってこの派兵は、琉球に対する日本の主権の主張と並んで、西郷軍の戦闘意思を発散せせるという、一石二鳥の効果があったわけである。
関連サイト:日本史覚書
南天のホウオウ(フェニックス)座の方角に、我々の銀河系から57億光年離れた巨大銀河団が見つかって、フェニックス銀河団と名付けられた。この銀河団は我々の銀河が属する銀河団の1000倍もの質量をもち、年に740個もの恒星を生み出していることが分かった。
]]> 映像は複数の望遠鏡のデータをもとに合成されたもの。紫色に見えるのはX線でチャンドラX線観測衛星がとらえたもの、赤・青・緑の部分はブランコ望遠鏡が可視光で撮影した。この銀河団には大量の高温ガスがあり、それが中心部に向かって移動する過程で冷却され、大量の星が生成しているらしい。通常の銀河団の中心部には大質量のブラックホールが存在し、それが冷却効果を相殺して星の生成を抑制することが知られているが、この銀河団の場合、そうした抑制効果が働かないために、大量の星が生成されると考えられる。そのことから、この銀河団の中心部のブラックホールは、まだ小さいと推測される。
それでもこのブラックホールは、今でも太陽の200億倍の質量をもち、更に猛スピードで成長している。とにかく桁外れの天体であるらしい。(映像はNASAから)
中世ヨーロッパの人々にとっては、肉体の悦楽を肯定することは異教的な堕落であり、ましてそれを賛美することは、神への許しがたい冒涜行為だとする観念が支配的だった。しかし肉体の賛美がまったく存在の余地を持たなかったかといえば、そうでもない。中世の民衆は、たとえば「薔薇物語」のような形で、肉欲を賛美する物語を楽しんでいたし、「デカメロン」や「カンタベリー物語」といった文学作品にも、肉欲を賛美する場面は多く描かれていたものだ。
]]> そうした肉欲肯定の作品には、「愛の園」とか「愛の館」といったものが繰り返し語られ、その中で男女が性的放縦に耽る場面も繰り返し描かれてきた。そうした性的な放縦の場面を絵画の形で描いたのが、ボスのトリプティック「悦楽の園」の中央画面だ、といっても間違いではなさそうである。画面は三つに分割され、後景には愛の館が、中景には女性たちの沐浴する泉の周りをさまざまな動物に跨って回転する男たちが、そして前景にはおびただしい数の裸体の男女が描かれている。
背景に描かれた5つの奇妙な形の構築物が、愛の館を表しているという明確な根拠はない。しかしよく見ると、どの構築物も土台の上に尖った塔のようなものを持っているし、前面には何らかの形の裂け目あるいは穴があいている。尖塔が男根を表し、裂け目が女陰を表していることは、裂け目の奥で男女が淫乱行為に耽っていることからも、ほぼ間違いない。
中景では丸い泉の中で女たちが裸体で沐浴し、そのまわりを動物に跨った男たちが駆け回っている。動物に跨るのは、性行為の隠喩である。右手には馬に跨った三人の男たちが魚をもちあげ、その魚は自分より小さな魚を飲みこもうとしている。魚は処女凌辱のシンボルとされているので、これは是が非でも女たちと性的に結ばれたいという男の欲望をシンボライズしたのだろうと考えられる。
画面の対角線が交差する部分、つまり画面の中央に卵が描かれているが、この卵は邪淫のシンボルだとするのが有力な説である。なぞそうなのかは、よくわからないところが多い。
前景では、夥しい数の男女が様々なポーズをとっているが、それらの男女の身近には様々な果実が描かれている。果実は性的堕落のシンボルなのだ。両脇に描かれている二匹のフクロウは、悪魔の使者として、人間たちの堕落ぶりを観察しているかのようだ。
人間大の果実の皮が、男女の逢引の舞台になっているのもある。最下段中程の殻のようなもののなかには一人の裸の男がもぐり込んでおり、その男に向かってマガモが口移しでイチゴのようなものを食べさせようとしている。これも邪淫のイメージなのだろう。
こうしてざっと見ただけでも、この画面が人間の性的欲望を中心にして、その欲望の開放とそこから生じる悦楽とを、アッケラカンとした態度でおおらかに描き出している、と受け取ることができるのではなかろうか。
(パネルに油彩、220×195cm、マドリード、プラド美術館)
関連サイト:壺齋散人の美術批評
高倉健さんの主演映画「あなたへ」を見た。以前から高倉健さんのファンだった筆者は、数年ぶりに健さんの主演映画が公開されるとあって、何を差し置いてもと、公開初日(8月25日)に映画館に足を運んだのだった。
こうして妻をなくした老人は、妻の遺骨を納めた壺を携え、妻の故郷である平戸を目指して、キャンピングカーを運転して富山を旅立った。
映画は、その旅の途中で出会った人々との心の触れ合いと、遂にたどり着いた平戸の漁村での思いがけない人々との交流、そして妻から届けられたもう一通の遺言のことを淡々と物語っていた。その遺言とは、やはりはがきに書かれてあった。それは「さようなら」というごく短い言葉だった。
老人は実は、妻の遺言のとおり遺骨を海に蒔くべきかどうか、悩み続けていた。しかし、これらの簡単なメッセージの中に、妻の固い意思が込められているのだと確信し、ついに遺骨を海に蒔く決断をする。
以上、映画の筋はごく単純なものだ。妻を失った老人が、妻の遺言に従って、その遺骨を彼女の故郷の海に蒔くというだけの話だ。主演の高倉健さんは、映画の中でも無口で、筋書きを複雑にするようなことは何もいわない。ただ妻の本意を確かめるために黙々と前へ進むだけだ。
しかしそんな健さんを、周りの人々が放っておかないのだ。様々な人々が健さんの周りに現れて、健さんとの触れ合いの中で、心の交流をする。その交流が何とも味わい深く、映画を見ている者の心まで暖めてくれるのだ。
クライマックスは、地元の漁師の船で沖合に出た健さんが、骨壺のなかから遺骨を一握りずつ取り出して、海水の中に静に蒔いていくシーンだ。水の中で小さな骨の粒が、真珠のように光る場面が美しかった。人間の骨はこうして、海の砂に溶けこんでいくのだ。
この映画は、高倉健さんという俳優の、人間的な魅力が存分に発揮されている作品だと思う。その健さんは、もう81歳になるのだという。(映像は公式HPから)
ねえ、ちびっこ王子、きみの人生って、わびしいものだったんだね。だって、お日さまが沈むのを見るよりほかに、気晴らしがなかったなんて。僕には、そのことが、四日目の朝に、君と交わした対話から、わかったんだ。
君はちょっぴり、びっくりしたようだけど、すぐに微笑みながら、こう言ったね。
「いつも、自分の星にいるように、感じちゃうんだ」
確かに、アメリカではお昼に、お日さまが真上にあるけど、同じ時刻のフランスでは、沈んでいるように見えるんだよ。だから、いますぐお日さまが沈むのを見たかったら、フランスにいかなきゃなんないけど、フランスは遠すぎるんだ。でも、君の小さな星でなら、少し椅子をずらすだけで、お日さまの沈むところが見られるんだね。君はいつでも好きな時に、夕暮れを楽しむことができるわけなんだ。
「ある時なんか、お日さまが43回も沈むのを、見たことがあるんだ」
そして、しばらくして、君はこう言ったね。
「ねえ 気持ちが悲しくなると、お日さまが沈むのを見たくならない?」
「じゃあ、君は、その時43回も悲しくなったの?」
僕のこの問いかけには、ちびっこ王子は答えなかったんだ。
CHAPITRE VI
Ah! petit prince, j'ai compris, peu à peu, ainsi, ta petite vie mélancolique. Tu n'avais eu longtemps pour ta distraction que la douceur des couchers du soleil. J'ai appris ce détail nouveau, le quatrième jour au matin, quand tu m'as dit:
-J'aime bien les couchers de soleil. Allons voir un coucher de soleil...
-Mais il faut attendre...
-Attendre quoi?
-Attendre que le soleil se couche.
Tu as eu l'air très surpris d'abord, et puis tu as ri de toi-même. Et tu m'as dit:
-Je me crois toujours chez moi!
En effet. Quand il est midi aux Etats-Unis, le soleil, tout le monde sait, se couche sur la France. Il suffirait de pouvoir aller en France en une minute pour assister au coucher de soleil. Malheureusement la France est bien trop éloignée. Mais, sur ta si petite planète, il te suffirait de tirer ta chaise de quelques pas. Et tu regardais le crépuscule chaque fois que tu le désirais...
-Un jour, j'ai vu le soleil se coucher quarante-trois fois!
Et un peu plus tard tu ajoutais:
-Tu sais... quand on est tellement triste on aime les couchers de soleil...
-Le jour des quarante-trois fois tu étais donc tellement triste? Mais le petit prince ne répondit pas.
陶の「郭主簿」に和す二首
清明日聞過誦書,聲節閑美,感念少時,悵然追懷先君宮師之遺意,且念淮、德二幼孫。無以自遣,乃和淵明二篇,隨意所寓,無復倫次也。
清明の日、過の書を誦するを聞くに,聲節閑美なり,少時を感じ念ひつつ,悵然として先君宮師之遺意を追懷し,且つ淮、德の二幼孫を念ふ。以て自ら遣る無し,乃ち淵明の二篇に和す,意の寓する所に隨ひ,復た倫次無き也。
其一
今日復何日 今日 復た何の日ぞ
高槐布初陰 高槐 初陰を布く
良辰非虛名 良辰 虛名に非ず
清和盈我襟 清和 我が襟に盈つ
孺子卷書坐 孺子 書を卷いて坐し
誦詩如鼓琴 詩を誦すること 琴を鼓するが如し
卻念四十年 卻って念ふ四十年
玉顏如汝今 玉顏 汝が今の如くなりぬ
今日はいったい何の日なのか、高い槐の木には木陰が出来ている、この良き日は虚名ではない、すがすがしさが我が襟元にも満ちている
我が子過が本を前にして座り、詩を誦する声がまるで琴の音のようだ、思えば今から40年前の自分も、今のお前と同じだった
閉戶未嘗出 戶を閉じて未だ嘗て出でず
出為鄰里欽 出でては鄰里の欽するところと為る
家世事酌古 家世 古を酌むを事とし
百史手自斟 百史 手自ら斟す
當年二老人 當年の二老人
喜我作此音 我が此の音を作すを喜ぶ
淮德入我夢 淮德 我が夢に入る
角羈未勝簪 角羈 未だ簪に勝(た)へず
孺子笑問我 孺子 笑って我に問ふ
君何念之深 君 何ぞ之を念ふこと深きと
門を閉じて外出せず、外出すればそのたびに近隣の人々に喜ばれたものだ、家は代々訓詁学に従事していたので、歴史書などは自分らで編集したものだ、あの頃父と祖父の二人は、私が声をあげて書を読むのを喜んだ、
二人の孫淮と德が、我が夢の中に現れた、二人ともまだ髪が伸びず簪を指すこともままならぬ、すると過が笑いながら私に言った、何をそんなに考え込んでおられるのですかと
家世は家が従事する業、手自斟は自分で編纂する意であろう、
息子の過は蘇軾の晩年にただ一人付き添って、蘇軾が唯一頼りにしていた。淮と德はふたりとも過の息子で、父親とは離れ離れになって、恵州に住んでいた。
保守派の論客として知られるニアル・ファーガソン(Niall Ferguson)が、雑誌Newsweek の最近号に、オバマ大統領を強く批判する記事を寄せた。題名は Hit the Road, Barack (立ち去れ、オバマ)というショッキングなものだ。するとすかさず、クルーグマンが反論の文章をニューヨーク・タイムズのコラムに寄せた。ファーガソンのオバマ批判はお門違いだというのだ。
]]> ファーガソンのオバマ批判の要点はふたつ。ひとつはオバマが嘘をついたということ、もう一つはオバマが財政危機を深刻化させたということだ。まず、どんな嘘をついたというのか。オバマは大統領選挙での公約に、雇用を作り、経済を活性化させ、社会資本を充実させるといっていた。しかしそのどれも実現されていない。ということは、オバマが公約を守らなかったということであり、結果的には国民に嘘をついたということになる、そういう理屈のようだ。
オバマが財政危機を深刻化させたという点については、政府財政の赤字の現状を含めて数字による検証はない。ただこのままでは、2037年における政府債務の残高がGDPの200パーセントにのぼるだろうと予想しているだけである。
赤字を膨らます要因としてファーガソンが批判しているのは、いわゆるオバマケアだ。オバマケアの導入によって、現在GDPの5パーセントを占めている医療費の国庫負担が2037年には10パーセントに達するというのである。また社会保障全体にわたる国庫負担は、現在のGDP比16パーセントが2037年には25パーセントに達するだろうと予想している。
許せないのは、それによって生じる負担を、オバマが金持ちへの増税で賄おうとしていることだ。オバマは国民の50パーセントから取り上げた税金で、残りの50パーセントを養おうとしている。その50パーセントは、生きる能力にも気力にも劣った連中だ。そんな連中のために豊かな50パーセントが犠牲になることはない。どうもそういう理屈らしい。
ファーガソンのこの文章が掲載されているNewsweek を読んだとき、クルーグマン夫妻はどこかの山の中で保養中であったらしいが、早速休暇を切り詰めて、反論の文章を書いた。
クルーグマンは、ファーガソンの文章のうち、次の部分に着目した。
"The president pledged that health-care reform would not add a cent to the deficit. But the CBO and the Joint Committee on Taxation now estimate that the insurance-coverage provisions of the ACA will have a net cost of close to $1.2 trillion over the 2012-22 period."
オバマケアが財政赤字の要因になることを、議会の予算委員会でも認めたという趣旨だが、実際にはそんなことはなかった、オバマケアには、赤字を増大させる効果はないと、予算委員会でも認めざるを得なかった。というのがクルーグマンの反論の趣旨だ。つまりファーガソンは間違った情報をもとに、世論操作をしようとしている、その態度が許せないとせまったのだった。
これに対してファーガソンのほうは、早速ウェッブ版上で弁明を行ったが、いまのところ、どうも旗色が悪いようである。(写真はファーガソン:New Yorkerから)
日本で火葬が導入されたのは文武天皇の時代、西暦700年のことである。その後持統天皇が、天皇としては初めて火葬され、それを契機にして皇族や貴族たちの間で火葬が広まっていったとされる。その際、遺骨がどのように取り扱われたかが問題となるが、山折は初期の火葬においては、遺骨は必ずしも大事に扱われなかったと推論している。
山折は、柳田国男を援用しながら、古代の日本人にとっては、死後の霊魂のあり方が関心の中心であって、遺体そのものはあまり問題とならなかったのではないかとも言っている。こうした文化にあっては、火葬後の遺骨についても、あまり問題とすることはなかっただろうと推論する理由は十分にある。
遺骨が尊重されるようになるのは、藤原道長の時代の前後からだと山折はいう。道長自身藤原氏の墓地であった木幡の地に浄妙寺を建立し、一族の諸亡霊を弔うために、その遺骨を丁寧に埋葬した。また、一条天皇は寛弘8年(1011)に火葬されたうえで、その火葬骨が円城寺に安置されたといい、次いで堀河天皇も火葬骨が香隆寺に安置され、その御骨所に詣でるものが多くなったとある。
このように、11世紀を境にして、遺体を火葬したうえで、その骨を寺の墓地に安置して詣でるという、今日と同じような遺骨尊重の葬送文化が、庶民の間でも定着していったと山折は推論している。
面白いのは、このような遺骨尊重文化の定着に、高野山が深くかかわったということである。納髪、納骨といって、身体の一部や遺骨を高野山へ収める風習が12世紀ころから貴族社会を中心に広まった。それは、高野山が、真言密教の根本道場であるとともに、来世往生を約束する山岳信仰の霊場であったことと関連している。高野山へ納骨することで、極楽浄土に生まれ変わるという信仰が、こうした行為を普及させたわけである。
高野山への信仰を広く説いて回ったものに高野聖があったが、彼らは全国津々浦々を歩き回りながら、庶民にたいして高野山への結縁を進めて歩いた。納骨は結縁の象徴的な形態と考えられたのである。
以上の過程を、山折は次のように総括する。「まず第一に、11世紀ころを境にして、とりわけ貴族の間に遺骨(火葬骨)に対する観念や態度に変化が認められるようになり、それが12世紀の高野山納骨の一般化とあいまって、しだいに遺骨の保存ひいては遺骨の尊重という観念を生み出した。そして第二に、そのような観念の一般化を推し進めるうえで大きな役割を果たしたのが、浄土教の信仰と来世信仰の流布であったということになるのであろう」
この議論を大局的にみると、火葬といい、遺骨尊重といい、日本古来の風習に根をもったものではなく、外来の文化に染まった結果だという印象を与える。しかし、そもそも日本には、洗骨の風習に象徴されるような、遺骨を尊重する文化が存在したという事実もある。
洗骨は、沖縄や奄美などで、近年まで行われていた風習で、二次葬あるいは複葬と呼ばれる。一時的な埋葬の結果白骨化した遺体の骨を洗い、それを本格的な墓に埋葬するというものであるが、これが遺骨尊重の原点だと考えることには、それなりの理由があるといえる。
山折はまた、遺骨尊重は、古代において行われていたもがり(風葬)の儀礼に原点があるのではないかとする五来重の説を紹介している。もがりにおいては、死者を一定期間風葬し、その遺体が白骨化した後で、それを埋葬するということが行われた。この儀式の精神が仏教化したもの、それが遺骨尊重だとするのである。
洗骨といい、もがりといい、死者をいったん白骨化の過程にさらし、その後に遺骨を埋葬するという点では共通している。
]]>毎週金曜日の夕方に総理大臣官邸周辺で脱原発デモを繰り広げてきた人々の代表と、野田首相が会談の場を設けたそうだ。テレビや新聞の報道によれば、野田さんには菅元首相が付き添い、脱原発デモ側からは10名ばかりが参加して、ほぼ30分にわたり会談を行ったが、互いに主張を言い合うだけに終わり、会談とは程遠い事態に終わったそうだ。
]]> しかしひとつだけ、オヤと思わせる場面があった。野田首相が、将来における脱原発の可能性について言及したことだ。野田さんはただ、その可能性を研究すると言っただけなのかもしれないが(あるいは、野田さんのいうところだから、どこまで信用していいのかわからぬが)、首相のいうことだけに重みはある。是非その方向での研究を進めてもらいたいものだ。先日は、例年以上に暑かった今年の夏が、今までのところ深刻な電力不足なしで乗り切れているとの情報が新聞等で伝えられた。ピーク時においても、電力会社全体としては供給能力に余裕があったそうだ。このことから、今年は大飯原発の稼働がない状態であっても、すなわち原発ゼロの状態でも、電力が賄えたということになりそうだという。
勿論、市民の節電はじめ、国を挙げての努力が効を奏したのだろう。そうした国民の強い意志と努力がなければ、いつ何時深刻な電力不足に陥らないともかぎらない。
しかし、今年が原発ゼロでも破綻しなかったということになれば、脱原発という選択も、一部でいわれているほど、荒唐無稽な選択ではないということになる。代替エネルギーについて開発の努力をしながら、すこしずつ脱原発を進めて行けば、重大な混乱なく進む可能性が強くなったわけである。
この会談と前後して、日本商工会議所の代表が野田首相を訪ね、先に政府が示した原発依存度案について、20-25パーセントを含めて、その実現性に全面的な疑問を投げかけ、引き続き原発を推進するように訴えたそうだ。その主張の根拠はといえば、経済への悪い影響と言うのみで、国民の安全を全く考慮していないばかりか、脱原発がもたらす経済へのプラスの影響についても、何ら考慮するところがなかった。
まったく想像力に欠けた、思考停止状態とも言うべき、惰性的な態度である。こんな連中のいうことを、いちいち真に受けてはおれんとの、気持ちを強くしたところだった。(写真は会談の様子:NHKから)
日本人女性ジャーナリストの山本美香さんが、内戦中のシリアで取材中、アサド軍の民兵に銃撃され、死亡する事件が起きた。山本さん(ジャパンプレス所属)は同僚のジャーナリストとともに、トルコ国境から、シリア北部の都市で激戦地となっているアレッポに入り、取材活動中にアサド政権側の民兵に襲われたということだ。
]]> シリアでは内戦が激化して以降、ジャーナリストが取材中に死亡する事件が相次いでおり、シリア人記者に限っても、すでに54人が政府軍によって殺害されているという。2月には戦争ジャーナリストとして高名なイギリス人女性ジャーナリスト、マリー・コルヴィン女史も銃撃を受けて命を落とした。コルヴィン女史が殺害された時は、イギリスのメディアは大々的に報道したが、イギリス人以外のジャーナリストが死んだ際には、ほとんど取り上げることはなかった。ところが山本さんの死に関しては、BBCなどが反応して報道したそうだ。
それには、山本さんに対する深い尊敬が働いていると、事情通は言う。欧米ではフリーのジャーナリストはいくらでもいるが、日本人の場合には、メディア直属のジャーナリストが殆どで、山本さんのようなフリーの立場に近いジャーナリストはあまりいないらしい。山本さんのような立場の人は、御雇のジャーナリストがやりたがらない仕事、つまり今進行中のシリアのように危険な戦場での取材が中心になる。それこそが自分たちのミッションだと、山本さんのような人たちは思っているらしい。したがって、自分を危険にさらす可能性が高い。よほど度胸を据えてかからないと務まらない。そんな過酷なミッションに、山本さんは命を懸けて動き回り、挙句の果てに遂に命を失ったわけだ。
そんな山本さんの勇気ある行動に、BBCなどは反応したのだろう。筆者もまた、彼女の死に弔意をささげたい。(映像は死直前の山本さん:ビデオ映像から)
ところで、そのパロディという言葉の概念的な内包を大江本人がどのようにとらえているか、明示的には語っていないが、それが「繰り返し」であることは認めている。あることを繰り返すことによって、あるいは模倣して見せることによって、その当のものを相対化し、場合によっては格下げすることで、笑いの対象とする、それがパロディだという理解であろう。とすれば、繰り返しは一回でなければならない。二度目になされた繰り返しは、既にパロディとしてのエネルギーを失っているからだ。それ故、大江は次のようにいう。
「セルバンテスは、最初に完成したパロディの枠組みを繰り返すのではない。繰り返されたパロディは、それだけでパロディ本来の批評的ダイナミズムを失ってしまうはずだが、セルバンテスがそのような停滞におちいることはない。
「次々に新しいパロディの仕掛けが始動して、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの二人組を油断のならぬ新鮮さに保つ・・・このような不断のパロディ化が、この作品の読み手の想像力をつねに活性化してやまぬのだし、読み手が現代の人間であることと、その活性化の力は矛盾しない」
パロディ化の手法には、単に現実に起きたことを再現して見せる(繰り返して見せる)という単純な方法から、アイロニーを通じて価値を相対化したり、辛辣な批評の対象とするような複雑な方法まで、多岐にわたるものがあるが、大江がとくに注目しているのは、ロシア・フォルマリストたちが「手法の露呈化」と呼んだものだ。
「手法の露呈化」とは、これは事実ではない、事実ではないことを語っているのだ、ということを明らかにしながら記述していく書き方のことだ。
大江が引用している木馬のシーンでは、尻に火をつけられたサンチョ・パンサは、自分が天空から見たということを得意げに語るが、読者はあらかじめ、それが事実ではないことを知らされているので、彼の言うことはまったくナンセンスだということがわかっている、わかっていながら、サンチョの言葉には哄笑せざるを得ない、この読者を「せざるを得なく」させるのが、「手法の露呈化」の効用だというのである。
このシーンの場合には、パロディの条件である先行する出来事がない。それでもこれがパロディとして通じるのは、手法の露呈化のためである。
読者はあらかじめ、それが事実ではないと知らされている。その事実ではないことを、サンチョはあたかも事実であるかのように語る。そのサンチョの語りは、サンチョをからかっているつもりの公爵夫妻を逆にからかう効果をもたらす。その効果が、このシーンをパロディ化させるわけなのだ。
「繰り返し」としてのパロディが、既に知られていることを別の光から眺め直すことだとしたら、手法の露呈化によるパロディは、これから知られるべきことが、知られるに相応しい内実を伴っていないことを確認する作業なのだと言えよう。
万事こんな調子で、小泉はアメリカ追随外交に徹した。その無批判な追随ぶりは、自分の頭で考えずとも、アメリカのブッシュさんが適当に考えてくれると言わんばかりである。そのブッシュさんから小泉は、テロとの戦いで人的・軍事的貢献を求められると、唯々諾々として従った。その従いかたには異常なものがあった。アメリカの思惑を先に読もうとするあまり、いわゆる前のめりの状態にもなった。たとえば、アーミテージ国防長官が、9・11後に関して「ショー・ザ・フラッグ」といった時に、小泉はこれを「自衛隊を派遣せよ」と解釈した。実際にアーミテージが言いたかったことは、相応の貢献をしてほしいということだったらしいのが、小泉はそれを深読みして、自分から自衛隊の派遣をせっせと決めたというわけなのである。
ブッシュの単独行動主義は、ヨーロッパ諸国からも広範な批判を呼んだが、そのなかで一貫してブッシュに寄り添ったのは、イギリスと日本である。ところがイギリスのブレア首相は、ブッシュを応援する一方、ヨーロッパ諸国との接点をも持とうと努力したが、小泉にはそんな配慮はひとかけらもなかった。彼にとっては、ただただアメリカに追随することが日本にとっての利益と思えたのだろう。
一方、中国、韓国との間では、混迷を超えて外交の不在ともいうべき状況が現出した。その最も大きな原因は小泉自身にある。彼の度重なる靖国参拝が中国、韓国をはじめ周辺の東アジア諸国を刺激し、その結果が東アジア外交の不在につながったのである。
小泉はまず、就任した年(2001)の8月13日に靖国に参拝した。1996年7月の橋本以来の首相参拝だった。その後も2002年5月、2003年1月、2004年1月、2005年10月、2006年8月と、6回にわたり公式参拝を行った。そのたびに、中国・韓国の反発を招き、2005年には大規模は反日デモが巻き起こる事態にも発展し、日中関係は深刻な状態に陥った。
こうした事態を、小泉がどう受け取っていたか。自分の勝手だろ、というのが彼の本音なのだろう。自分の信念にもとづいてやっていることに、他人がとやかく言う筋合いはないというわけだ。しかし、個人的な信念と、首相としての公式な立場とは、おのずから違う。私的な感情を公的な言動に持ち込むことは、時と場合によっては慎まなければならないことがある。小泉にはそこのところがわからなかったらしい。彼の行動からは、日本の国益よりも、自分の信念の方が大事だという雰囲気が伝わってくる。
小泉外交について特記されねばならないのは、北朝鮮の金正日との二度にわたる会談である。これらの会談を通じて、小泉は拉致問題の解決にむけて一歩を踏み出した。すなわち、一回目の会談では、拉致被害者の存在を金正日に認めさせ、それにもとづいて五人の拉致被害者の帰国が実現した。その後、てんやわんやがあった後に開かれた二回目の会談では、被害者の家族の帰国も実現した。
こうした具合に、小泉の北朝鮮外交は、拉致被害者問題との関連で論じられることが多いが、実際には、小泉の方から拉致問題の解決について働きかけたというよりも、金正日の方からの働き掛けに小泉が乗ったという側面の方が強い。金正日は、経済の立て直しのために日本の援助を期待し、その前提として国交正常化を考えるようになった。こうした思惑があったために、北朝鮮との首脳会談が実現したという経緯がある。小泉はそれに乗る形で、拉致問題の解決を図ろうとしたに過ぎない。そうもいえるのである。
そうしてみれば、小泉・金正日会談は、両国の抜本的な関係改善にとって、またとないチャンスだったわけである。だが不幸なことに、拉致問題がなかなか解決されず、それがネックとなって、日朝関係は暗礁に乗り上げてしまったといえる。
ここにも、外交を戦略的に身すえず、その場の雰囲気に任せるという小泉の姿勢が、外交の不在をもたらしている、そう言えるのだと思う。
以上は、内山融「小泉政権」(中公新書)を読んで感じたところである。
これらの言葉はさらに、「うかうか」、「しみじみ」、「すらすら」というような形(反復語)にもなる。むしろ歴史的にはこの形が基本だったのではないか。
このような、ひとつの語を反復する用例は、中国語やマレー語などにも見られるが、日本語においても、古事記以来の伝統的な用い方になっている。
そしてこの反復語をよく見ると、多くが擬態語であることに気づく。
これらの反復語は、「うか」、「しみ」、「すら」などの基本的な要素に還元できる。それを氏は「語基」と呼んでいる。日本語は、擬態語からこの語基の部分を取り出し、それをもとにして多くの品詞を作り出してきた歴史を持っているといえるのではないか。
たとえば、「ゆら」だ。これを用いたもっとも原始的な使い方は、「ゆら」を二つ重ねた「ゆらゆら」である。というよりか、原始の言葉「ゆらゆら」があって、そこから「ゆら」という語基が生じたと言い換えてもいい。
「ゆら」が「ゆる」になると動詞として使える。「ゆる」はさらに、「ゆらぐ」、「ゆれる」、「ゆらめく」などに変化する。
「ゆら」が「ゆれ」になると、名詞として使える。同じようにして、「ゆらぎ」、「ゆらめき」などの言葉が生まれる。「ゆり」もまた「ゆれ」の変形ではないか。百合は花びらが大きく揺れることで知られる花である。
形容詞は、「ゆらゆらとした」という具合に、形容動詞「ゆらゆらとする」を変化させて作る。
こうしてみれば、日本語の品詞は、擬態語が基になって、それから様々な言葉が作られてきたことがよく納得できる。日本語の語源の多くは、擬態語にあるわけなのだ。
関連サイト: 日本語と日本文化