山上億良が多感な老官人だったとすれば、大伴旅人には風流な大官という趣がある。旅人は名門大伴氏の嫡男として生まれ、父親同様大納言にまで上り詰めた。人麻呂や億良とは異なり、古代日本の貴族社会を体現した人物である。そのためか、大伴旅人の歌にはおおらかさと、風雅な情緒が溢れている。
大伴氏は物部氏と並ぶ武門の名門である。一時期蘇我氏に圧迫されて振るわなくなったが、壬申の乱での勲功があって、天武以降再び栄えていた。
この武門の家に、どういうわけか教養のある人物が輩出した。旅人の妹坂上郎女は多情な女流歌人であったし、子の家持はいうまでもなく、万葉を代表する歌人である。旅人も若い頃から詩や和歌を作っていたらしいが、残念ながらそれらは散逸して残されていない。今に伝わる大伴旅人の作品は、大宰府の師であった老年以降のものばかりである。
大宰府に赴任したとき、大伴旅人は既に六十を過ぎていた。北山茂夫によれば、決して左遷ではなかったが、旅人にとっては意に沿わぬことであったらしい。老年を迎えていた旅人にとって、都を遠く離れた九州で暮らすことは、精神的にも体力的にもつらいことだったのであろう。
だがここで、大伴旅人は山上億良や僧満誓らと出会う。その出会いは、日本の詩歌にとっては幸福なことであった。彼らは互いに刺激しあい、老年にしてなお文芸への情熱を奮い立たせながら、多くの佳作を作るに至るからである。
ここでは、そんな大伴旅人の歌を読み解いていきたいと思う。
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