漢の武帝は漢王朝五代目の君主として、漢を全盛時代に導いた。16歳で即位し、その在位期間は55年の長きに及んだ。北では匈奴が力を増し、外交上の緊張もあったが、この時代の漢はあらゆる意味で繁栄を誇ったといえる。
「秋風辞」は武帝44歳のときの作。この年、武帝は山西省の汾陰に行幸して后土(土地神)を祭り、群臣とともに汾河に船を浮かべて行楽した。
秋風辞
秋風起兮白雲飛 秋風起って 白雲飛び
草木黃落兮雁南歸 草木黃落して 雁南に歸る
蘭有秀兮菊有芳 蘭に秀有り 菊に芳有り
懷佳人兮不能忘 佳人を懷うて 忘るる能はず
泛樓船兮濟汾河 樓船を泛べて 汾河を濟り
橫中流兮揚素波 中流に橫たはりて 素波を揚ぐ
簫鼓鳴兮發棹歌 簫鼓鳴りて 棹歌を發す
歡樂極兮哀情多 歡樂極りて 哀情多し
少壯幾時兮奈老何 少壯幾時ぞ 老いを奈何せん
秋風が立って白雲が飛び、草木は黃ばみ落ちて雁が南に歸る、蘭(ふじばかま)や菊が香るこの季節、佳人が思い起こされて忘れることができない。
樓船(2階建ての船)を泛べて汾河を渡り、中流に横たわって白い波をあげる、船内は弦歌が鳴り響いて歓楽が極まるうちにも、なぜか憂いの感情が起こってくる。
若いときはいつまでも続かぬ、老いていく身をどうすることもできない。
44歳にして老いを嘆くのは早すぎるとも思われるが、この時代の人に寿命は図りがたかったようであるから、当時の感覚として不自然ではなかったのだろう。
佳人とは何をさすかについて古来議論があった。屈原など楚の人にとって水のほとりの佳人といえば、舜に殉じて死んだ湘君のことをさすが、武帝の念頭にあったのは仙女だったともいい、あるいは都に残してきた妾だったともいう。
それにしても、皇帝の歌にしては余りにも人間臭く響くのは、この歌を流れている老荘思想のためだと思われる。漢は歴代儒教を重んじ老荘思想を排してきたが、武帝はこの思想に親和性を感じていた節がある。
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