陶淵明「飲酒二十首」より其十一「顏生稱爲仁」を読む
飮酒其十一
顏生稱爲仁 顏生は仁を爲すと稱せられ
榮公言有道 榮公は有道と言はるるも
屡空不獲年 屡しば空しくして年を獲ず
長飢至于老 長に飢えて老に至る
雖留身後名 身後の名を留むと雖も
一生亦枯槁 一生亦枯槁す
死去何所知 死し去りては何の知る所ぞ
稱心固爲好 心に稱ふを固より好しと爲す
客養千金躯 千金の躯を客養するも
臨化消其寶 化に臨んでは其の寶を消す
裸葬何必惡 裸葬何ぞ必ずしも惡しからん
人當解意表 人當に意表を解すべし
顏回は仁を実践したと称賛され、榮公は有道といわれたが、(顏回は)しばしば生活に事欠いて長生きできず、(榮公は)いつも飢えて年をとった、死後に名声を残したといっても、その一生はやせ衰えたものだった
人間死んでしまっては何の意味もない、生きている間に満足することこそ肝要なのだ、大事に身体を養生しても、死んでしまえば形は残らない、裸葬もまた悪くはないではないか、よくよく生き様の如何を考えたいものだ
顏生は孔子の弟子顏回、志高かったが常に清貧に甘んじ30にして若死にした、榮公は春秋時代の隠者榮啓期、鹿の毛皮に縄を巻き、山菜を食いながら90まで生きた。彼らはしばしば、潔い生き方をした人物としてたたえられることもあるが、陶淵明はここで、彼らを反面教師として用いている。
死後に名を残し、聖人だなどといって称賛されても、貧しくひもじい人生を過ごすのは、たった一度の人生としては余りにもさびしい、それより生きているうちに、生きることの喜びを謳歌することのほうが、どれだけ大事なことか。充実した人生を送ることが出来れば、死後に何も残らないでよいではないか、前漢の楊王孫のように裸のまま葬られるのも一興だ。
陶淵明はこう歌い、人生の意味を改めて考え直しているようだ。
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