地球上に興隆したどんな民族にとっても、その生存の基盤となるものは食の体系であった。動物において食の連鎖が種の保存の基礎をなすのと同じである。特定の食の連鎖が崩れたとき、その一端につながる種が滅びることがあるように、どんな民族も安定した食の体系が確保できなければ、生き残ることは出来ない。
ホモ・サピエンスが地球上に広がり、様々な土地に定着するようになると、土地の条件に応じた食の確保に努めたに違いない。または、安定した食を求めて移住を繰り返したに違いない。こうして食の確保に成功した種族は生き残り、失敗した種族は滅んだのであろう。
人類の祖先が主に何を食べていたかについては、近年研究が進み、根茎類を中心にした植物に依存する割合の多いことがわかってきている。いづれにせよ、人類は食物を採集するところから出発したのである。採集の対象は植物であったり、小動物であったりした。
人類が採集文化を乗り越えて、自らの知恵で食物の確保をコントロールするようになるのは一万数千年前のことだとされる。この頃人類は農耕と牧畜を始めるようになったのである。
農耕は4大文明発祥の地といわれる肥沃な地帯を中心に発展した。この地帯に生きる種族は、それぞれの条件にしたがって、麦や米を主食とした独自の食文化を形成していく。またユーラシア大陸の北部に散らばっていた種族は、羊やトナカイなどを遊牧し、その肉を主食とする文化を築いていった。
日本に縄文人が住み始めたのは数千年前のことである。彼等は食物採集文化の段階にあったが、日本の土地の豊かさの恵みにあずかり、どんぐり類を主食として採集することを中心に、豊富な水産資源で蛋白質をおぎなうという食文化を形成していく。
縄文時代の末期には、水稲の栽培が始まり、我らが祖先たちも農耕文化の段階に入る。この段階になると、主食は米が占めるようになるが、だからといって、縄文人の食のスタイルが根本的に変わったということではなかった。それまで占めていた主食の位置を、どんぐりに変わって米が占めるようになったというだけのことである。米の生産量はそう豊富ではなかったので、米と並んでどんぐりも引き続き食われたようである。また副食としては、それまで同様水産物を主に食い続けたのである。
このように日本の食文化の基本は、米を主食にし、水産物や豆類などで蛋白質を補うというものである。水産物の中心は、いわしなどの近海魚、鮎などの淡水魚であった。また植物蛋白としては大豆を加工して様々な食品が工夫された。
現在に連なる日本の食文化が完成するのは安土桃山時代の頃である。この時代に現代人が食っている食事の献立がほぼ出揃い、また食事をめぐる様々な作法が確立された。明治以降の洋風食文化の移入も、基本的にはこの時代に確立された伝統に接木をするような形で摂取されてきたのである。
ここでは、日本の食文化について、食物の変遷や食事のパターンなどを中心に、歴史的パースペクティヴの中で考えていきたい。
関連リンク: 日本文化考
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