能「安達が原」は人食いの鬼婆を題材にした作品である。那智の東光坊の阿闍梨裕慶一行が山伏姿になって東国行脚に出かけ、陸奥の安達が原に差し掛かったとき、老婆の小屋に立寄って一夜の宿を借りる。老婆はもてなしのためにと裏山に薪を採りに出かけるが、そのさい奥の部屋を決してのぞいてはぬらぬと言い残す。裕慶らが好奇心からその部屋をのぞいたところ、そこには食われてしまった人々の残骸が累々と重なっていたというストーリーである。
その陰惨な場面を謡曲は次のように謡っている。
「ふしぎや主の閨の内を、物の隙よりよく見れば、膿血忽ち融滌し、臭穢は満ちて膨脹し、膚膩ことごとく爛壊せり、人の死骸は数しらず、軒とひとしく積み置きたり、いかさまこれは音に聞<、安達が原の黒塚に、籠れる鬼の住所なり。恐ろしやかゝる憂き目をみちのくの、安達が原の黒塚に、鬼こもれりと詠じけん、歌の心もかくやらん」
ここで歌の心と言及されているのは「みちのくの 安達が原の黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか」という、古歌のことである。この歌の影響はあまりにも強かったとみえ、安達が原は陸奥にあって、そこには人を捕らえて食う女鬼が住むという伝説が広まったようだ。能はそれを取り上げて、鬼に食われた人々の残骸と、それを食った鬼婆のすさまじさを、おどろおどろしく描いているのである。
だが、安達が原はかならずしも陸奥のみにあったのではない。それは鬼が住み着いて人を食い、食われた人の残骸が累々と重なっているイメージで表されているが、それはとりもなおさず、死者たちを葬った墓場をイメージしているのであり、したがって日本中どこにもあったものだという趣旨のことを、宗教民俗学者の五来重が唱えている。
五来重によれば、古代の日本人は山のふもとに死者の遺骸を捨て去る風習をもっていた。いわゆる風葬である。そのような場所には腐乱した死骸が累々と重なり、その死骸からは妖気が漂っていると観念されただろう。また死体が腐乱していく過程は、鬼がそれを食っているからだという観念も生まれたことだろう。安達が原の鬼婆の伝説は、そうした古代の日本人がもっていた墓場に対するイメージを引き継いでいるのではないか、そういうのである。
安達が原という地名に含まれている「あだ」という言葉は、もともと「むなしい」という意味をもっている。今でも「あだになる」などという表現に、意味の一端が残されている。これは死者の葬られた墓場のイメージに重なるといえる。京都には「あだし野」という地名があるが、それは死者を弔う石塔を集めたとされる場所である。また、「あたご山」は東山の山麓をさすが、そこはもと鳥辺野といって、死者を葬る場所であった。
だから安達が原とは、日本人が墓場というものに対して抱いていた感情を、伝説の上に投影したものといえるのである。
この安達が原に鬼婆が住むというのは、墓場に漂う死者の霊が、生きているものに取り付くという恐怖を表しているものと考えられる。日本人は古来、人の霊魂というものに非常に敏感な民族であった。とりわけ怨霊は強烈な力をもって人びとにさまざまな影響を及ぼすと考えられた。菅原道真の怨霊などはその最たるもので、京都の祇園祭は道真の怨霊を鎮めることを主たる目的として始まったくらいである。
この怨霊が、安達が原の鬼婆のイメージへと発展したのであろう。
謡曲のほうに戻ると、秘密を見られた鬼婆は本性を表し、僧侶たちに襲い掛かる。「鳴神稲妻天地に満ちて、室かき曇る雨の夜の、鬼一口に食はんとて、歩みよる足音、ふりあぐる鉄杖のいきほひ、あたりを払って恐ろしや」
「鬼一口に食はんとて」の部分に、人を食う鬼の本性がよく描かれている。謡曲ではこの後、僧侶たちの唱える仏法の威力によって、鬼婆は成仏することになっている。
日本古来の死生観が仏教の思想と混交したところから、この伝説は生まれたのだろうと、推測される。
安達が原は日本人にとっての墓場の原風景であり、そこに漂う死者の霊が鬼婆の姿に投影されたのだともいえよう。
(参考)五来重「鬼むかし」
関連リンク: 神話と伝承>鬼の話:昔話に見る日本の鬼
コメントする