ジョン・キーツ John Keats(1795-1821) は、パーシー・ビッシュ・シェリーと並んで、イギリス・ロマンティシズムの盛期を飾る詩人であり、その後のイギリスの詩に及ぼした影響は非常に大きなものがある。年上の友人でもあったシェリーと先輩格のリー・ハントが、ともにリベラリズムの信念から政治的な傾向を見せたのに対し、キーツは自然や人間の美を大事にし、美を歌うことこそが詩人の使命だと考えていた。こうした彼の態度が、作品に透明な輝きをもたらし、珠玉のように美しい詩を生み出させたのである。
キーツは、死後の名声に比較し、生きている間は決して幸せとはいえなかった。ロンドンで服飾店を営んでいた父親は、キーツが9歳のときに、落馬事故がもとで死んだし、母親も15歳のときに、結核で死んだ。母親を侵した結核菌が子どもたちにも移り、キーツはそれがもとで、わずか25歳にして死んだのである。
子どもの頃のキーツは聡明であった。両親はキーツをハーロウに入れたいと考えたほどだったが、結局はエンフィールドの中学校に入れた。しかしこの学校でキーツはクラークという優れた教師に出会い、彼を通じて文学に志すようになった。またキーツをリー・ハントに引き合わせたのもクラークだった。
母親の死後、キーツは弟妹と引き離され、エンフィールドの近くにある薬局に勤めた。だが店の主人と折り合いが悪く、1814年にそこをやめて、ギー・ホスピタルの見習い学生になった。リー・ハントと出合ったのは1816年のことである。ハントはリベラルな思想の持ち主で、自分が主催していた雑誌を通じて、保守勢力を批判していた。しかしその批判が皇太子リージェントに向いたとき、不敬を理由に逮捕され、2年間投獄された。キーツは下獄したばかりのハントと、クラークを介して出会ったのである。
ハントは一躍リベラル派の英雄となり、その周りには多くの人が集まってきた。その中にシェリーの姿もあった。シェリーはキーツが好きになり、後にキーツの死を悼んで有名な挽歌を書いたほどだが、キーツのほうは、貧しい境遇の自分に比べ、何もかも不自由のないこのアリストクラティックな青年が、別世界の人間のように思えたらしい。
キーツの詩作の出発点はスペンサーを真似ることから始まった。彼はそれらの詩をハントの雑誌に載せてもらった。また1817年にはハントの好意で最初の詩集を出版した。だがそれらは世間の注目を引くことはなかった。
1818年に叙事詩エンディミオンを出版すると思いがけない反響が起こった。これまで黙殺されてきたキーツの詩が、俄然批評の対象となった。だが、それらは悪意に満ちたものだった。キーツがハントの仲間であることを理由に、ハントを目の敵にするものたちが、キーツをも攻撃の対象にしたのである。キーツはそれらの悪意ある批評に大いに傷ついた。
エンディミオンを書き上げた頃から、キーツは結核の症状に苦しみ始めた。弟のトムはその年に結核で死んでいる。キーツはハントのいるハムステッドに引越し、そこでファニー・ブローンという女性と出会い、恋に陥った。この恋はキーツ自身の病気のために、結局実らなかった。
1818年の後半から1819年いっぱいは、キーツの詩にとっては実りの多い時期となった。Great Odes と呼ばれる一連の作品をはじめ、キーツの代表作といわれるものの多くが、この時期に書かれた。
1820年に入ると、キーツの健康状態は深刻になっていった。その様子を聞きつけたシェリーは、イタリアの自分のところに保養に来るようにと誘ったが、キーツは体よく断った。シェリーとは肌が合わないと感じたのだろう。そのかわり、キーツは友人のジョゼフ・セヴァーンとともにローマに旅した。そして翌年そこで死んだ。
キーツの遺体はローマのプロテスタント墓地に埋葬され、その墓には次のような碑文が記された。
"Here lies one whose name was writ in water."
シェリーはキーツの死を悼み、哀切極まる挽歌 “Adonais” を書いた。またバイロンもキーツの死をテーマにした短い詩を書いた。
当ブログ内のキーツの作品
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