ランボーの散文詩集「イリュミナション」が始めて発表されたのは1886年、雑誌「ヴォーグ」紙上においてである。そのときランボーはまだアフリカで生きていたが、この発表に関与した形跡はない。これを編集したのはグスタフ・カーンとフェリックス・フェネアンであるが、彼等は何らかのルートで手に入れたランボーの散文詩篇に加え、1872年代に書かれた韻文12編も一緒に発表した。
ヴォーグ社は更に、雑誌の記事を基にして、それにヴェルレーヌの序文を添え、同年単行本の形で出版した。これが「イリュミナション」の初版と目すべきものである。
その序文の中で、ヴェルレーヌは「イリュミナション」の諸篇が、彼とランボーとの共同生活の間に書かれたものだと主張した。そこで長い間、イリュミナションは1872年から1873年にかけて書かれたものであり、「地獄の一季節」より前のものだという説が定着した。ランボーは「地獄の一季節」の中で文学との決別を宣言しているから、話としては辻褄があっていたのである。
だが初版には、今日から見て、誤謬や遺漏が多く含まれていた。それが今日のような形で定校を得るのは、ランボーの親友エルネスト・ドラエイなどの努力を踏まえ、ブイヤヌ・ド・ラコストが決定版を出版した1930年代のことである。
ラコストは「イリュミナション」の執筆時期についても綿密な再検討を行い、それが書かれたのは「地獄の一季節」の後、1874年だったことを主張した。今日ではラコストの主張が大方の支持を得るようになり、「イリュミナション」はランボー最後の作品群だという説が、定着するに至っている。
イリュミナションに収められた諸篇は、ランボーの残した手書きの詩篇をもとにしたものである。それらは個々の紙片にバラバラに書かれており、作品相互の順序について、ランボー自身は何らの指示もしていない。ランボー自身がどのような意思によってこれらの作品群を書いたのかや、それらをどのように配列すべきなのかについて、決定的なことは何もいえないのが現状である。
今日「イリュミナション」として知られている本は、ラコストによるものを基礎的なテキストにしているが、それはあくまでも編集者の想像による再構成の結果なのである。
「イリュミナション」に収められた個々の詩については、さまざまな考証がなされてきた。先ほども言ったように、最終的に形を整えるに至ったのは、「地獄の一季節」以後のことであるが、なかにはそれに先立って書かれたものもあるようだ。
詩の内容についても、「地獄の一季節」と同じトーンのものがあり、またそれ以前に書かれた韻文の作品と同じトーンのものもある。またこの詩集の創作に没頭していた頃の、1874年のロンドンでの生活を盛り込んだものも、当然ながらある。
こうしたところから推測すると、ランボーはヴェルレーヌと決別した後、韻文の創作と平行して散文の作品も書き続けていたと思われる。それらの中心は「地獄の一季節」に収められたものである。
ランボーは「地獄の一季節」を脱稿した後、新たな散文詩集を念頭において、新しい作品を作るとともに、古い散文作品にも最終的な仕上げを試みたのではないか。
「イリュミナション」の創作を切り上げるとすぐに、ランボーは文学との最終的な決別をとげ、放浪の生活に入った。そして、アフリカで蒙った風土病がもとで、決して長くはない一生を終えるのである。
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