天問の題意についてはさまざまな説がある。もっともらしいのは、屈原は放たれて山野をさまよううち、楚の先王の廟に天地山川の森羅万象を描いた図を見て、それに詩を供えたとするもので、一種の画賛とする見方である。
この詩は、楚辞のほかの詩と異なって、四言で一句をなしており、しかも兮の字を用いない。これは画賛の手法に従った結果だと考えられる。
全篇は十段に分かたれるが、ここでは最初の一段を紹介する。
楚辞から屈原作「天問」(壺齋散人注)
曰遂古之初 曰く遂古の初めは
誰傳道之 誰かこれを傳道せる
上下未形 上下未だ形あらず
何由考之 何に由りてか之を考ふる
そもそも天地の初めのことは、誰が言い伝えたのだろうか。天と地がまだ形もないときに、何によってそれを考えたのだろうか
冥昭瞢暗 冥昭瞢暗(ぼうあん)なる
誰能極之 誰か能く之を極むる
馮翼惟象 馮翼として惟(こ)れ象あり
何以識之 何を以てか之を識れる
昼夜を分かたずただ暗いときに、誰がそれを見極めたのだろうか。もやもやとした中にはじめて像が現れたとき、だれがそれを知ったのだろうか
明明暗暗 明を明とし暗を暗とす
惟時何為 惟れ時(こ)れ何をか為せる
陰陽三合 陰陽三合す
何本何化 何れか本にして何れか化なる
明を明とし暗を暗として区別したのは、だれがなしたのだろうか、陰陽が和合して万物が生じたとき、どれが本でどれが変化だったのだろうか
圜則九重 圜則(えんそく)は九重なると
孰營度之 孰(た)れか之を營度せる
惟茲何功 惟れ茲(こ)れ何の功ぞ
孰初作之 孰れか初めて之を作れる
天は丸く九重の形をなしていると、だれが観測したのだろうか。そもそもそれはどんな功力で、だれがそれを作ったのだろうか。
斡維焉系 斡維(あつゐ)焉(いづ)くにか系(かか)る
天極焉加 天極焉くにか加はる
八柱何當 八柱は何くにか當る
東南何虧 東南は何ぞ虧(か)けたる
天の回転のための軸や綱はどこにつながれ、天柱はどこに立てられているのだろうか、八柱はどこに当たっているのだろうか、そこに東南が欠けているのはなぜだろうか
九天之際 九天の際は
安放安屬 安(いづ)くにか放(いた)り安くにか屬(つ)く
隅隈多有 隅隈多く有り
誰知其數 誰か其の數を知れる
九天の境界は、どこまで続いているのだろうか。その隅々は多くあるというが、だれがその数を知っているのだろうか。
天何所沓 天何れの所か沓(かさ)なる
十二焉分 十二焉くにか分かてる
日月安屬 日月安くにか屬き
列星安陳 列星安くにか陳(つら)なる
天はどこで重なっているのだろうか、十二の星次はどこで分かれているのだろうか。日月はどこに繋がれているのか、星星はいかなる配置になっているのか。
出於湯谷 湯谷より出でて
次於蒙汜 蒙汜に次(やど)る
自明及晦 明より晦に及ぶまで
所行幾里 行く所幾里ぞ
日は朝湯谷を出て、暮に蒙汜に沈むというが、朝から暮の間に、どれくらいの距離を行くのだろうか。
夜光何德 夜光何の德ぞ
死則又育 死すれば則ち又育す
厥利維何 厥(そ)の利維れ何ぞ
而顧菟在腹 而して顧菟(こと)腹に在り
夜光(月)には何の徳があるのだろうか、欠けたと思ったらまた満ちてくる。何の利があって、腹にウサギを住まわせているのか。
女岐無合 女岐は合ふこと無し
夫焉取九子 夫れ焉(なん)ぞ九子を取れる
伯強何處 伯強は何れの處ぞ
惠氣安在 惠氣安くにか在る
女岐は夫を持つことがなかったのに、なぜ九子を産んだのであろうか、伯強(疫病神)はどこにいるのか、和気はどこにあるのか。
何闔而晦 何くにか闔(と)じて晦く
何開而明 何くにか開きて明るき
角宿未旦 角宿未だ旦(あ)けざるとき
曜靈安藏 曜靈は安くにか藏(かく)れる
どこを閉じると暗くなり、どこを開くと明るくなるのか、東方がまだ明けない時、日はどこに隠れているのだろうか。
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