「歌よみに与ふる書」を発表した子規は、その後も批判に答える形で、「ひとびとに答ふ」などを執筆しながら、自らも和歌作りの実践をしていく。それらは漢語の多用が目立ったり、俳句趣味を和歌に持ち込んだと思われるものがあったり、人の意表をつくような内容のものも多かったが、子規は次第に和歌のなかに自分の世界を作り上げていく。
そんな子規の和歌作りの成果の中で、もっとも見るべきものは連作ものだろう。
連作については、子規はすでに俳句において「一題十首」のような形で実践していた。それを和歌にも取り入れて、ある主題について複数の歌を読むようなことを行ったわけである。たとえば「我が庭」とか「日暮里諏訪神社の茶店に遊びて」とかいった題のもとに、連想するものを並べたのである。しかし、俳句の場合にせよ和歌の場合にせよ、連想の変化を喜ぶことはあっても、一つ一つの作品には必ずしも脈絡があるわけではなく、全体として統一したイメージを喚起するようなものではなかった。
ところがそのうちに、脈絡なく和歌を並べるだけではなく、連作を構成する個々の歌が、それぞれ主題に呼応し、しかも互いに響きあうような世界が現れ始めた。子規晩年を彩る和歌の世界は、連作がかもし出す独特のハーモニーからなるといってよいが、それが和歌作りを実践する過程の比較的早い時期に確立されたのである。
明治31年に作った連作のうち最も優れた作品は、「足たたば」と「われは」である。
「足たたば」は、徒然坊こと坂井久良伎が箱根から数葉の写真を送ってきたことに答える形で作り始めたものである。子規はそれらの写真を見て、風景の美しさに感心し、また自分が若い頃に旅をした思い出にふけり、いまは足がたたなくなって、それらの風景を見ることもかなわぬ自分の境遇に思い至る。そこでもし再び足がたったならばと、かなわぬ空想を盛り込んだ一連の歌を作ったのである。
足たたば不尽の高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを
足たたば二荒のおくの水海にひとり隠れて月を見ましを
足たたば北インヂアのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
足たたば蝦夷の栗原くぬぎ原アイノが友と熊殺さましを
足たたば新高山の山もとにいほり結びてバナナ植ゑましを
足たたば大和山城うちめぐり須磨の浦わに昼寝せましを
足たたば黄河の水をかち渉り崋山の蓮の花剪らましを
かなわぬ願いをくりかえし歌うことによって、その願いの切なさが浮かび上がってくるような、独特の効果が読み取れるだろう。
一方「われは」の連作のほうは、足が立たなくなって寝たきりの状態ですごさざるをえない自分の境遇について、それを受け入れつつ健気に生きていこうとする、自分の気持ちを読み込んだものである。
世の人は四国猿とぞ笑ふなる四国の猿の子孫ぞわれは
ひんがしの京の丑寅杉茂る上野の陰に昼寝すわれは
いにしへの故里人のゑがきにし墨絵の竹に向ひ座すわれは
人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵に籠もりて蝿殺すわれは
富士を踏みて帰りし人の物語聞きつつ細き足さするわれは
吉原の太鼓聞えて更くる夜にひとり俳句を分類すわれは
昔せし童遊びをなつかしみこより花火に余念なしわれは
果物の核を小庭に撒き置きて花咲き実る年を待つわれは
これらの歌には、子規一流の生き様が、何のてらいもなく盛られている。それは風流や優雅とは無縁のものかもしれないが、人間の優しさ、やるせなさがこもっている。こんな日常的でしかも人間的な感情を、ごく普通の言葉で歌い上げたものは、子規以前の和歌にはなかったことである。
なお、第一句あるいは第五句に同じ言葉を何首も連続して置くのは、古人の例にもあり、子規の独創ではない。しかしそこからにじみ出てくる効果は、子規を待たなければ知られなかったものだ。
子規はこの後連作を続けるうちに、「藤の花」や「山吹の花」の連作のような、美しさに満ち溢れた作品を生み出していった。
関連リンク: 日本文学覚書>正岡子規:生涯と作品
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