杜甫の少年時代から青年時代にかけてのことは、あまりよくわかっていない。文人としては名をとどめたが、生涯無官あるいは低官に甘んじたために、公的な記録もなく、自身も詳しい記述を残さなかったためだ。
それでも、杜甫は折に触れて、自分の少年時代の事を詩の中で語っている。それらを読むことで、少年時代の杜甫がどんな志を抱き、またどんな行動をとっていたか、その一端を推理することができる。
杜甫が少年時代に触れた詩を書くようになるのは、五十台を過ぎてからだ。いくつかそうした詩があるが、もっともよく知られているものとして、ここでは「壯遊」を取り上げたい。
大暦元年(766)55歳のときに、蜀で書いたものだ。112句からなる長大なものなので、ここでは前半の部分を紹介する。
壯遊(杜甫の五言古詩、壺齋散人注)
往昔十四五 往昔 十四五
出遊翰墨場 出でて遊ぶ翰墨の場
斯文崔魏徒 斯文 崔魏の徒
以我似班揚 我を以て班揚に似たりとす
七齡思即壯 七齡 思ひは即ち壯んに
開口詠鳳凰 口を開きて鳳凰を詠ず
九齡書大字 九齡 大字を書し
有作成一囊 作有りて一囊を成す
往昔十四五歳の頃には翰墨の場に遊んだものだ、文章の名人たる崔魏の徒も、わたしを班揚に比較してほめてくれた
七歳にしてすでに思いは盛んで、口を開いては鳳凰を詠じたものだ、九歳にして字を書き、作品が袋にいっぱいになった
冒頭では少年時代の志について語る、翰墨の場とは文人たちのサロンのようなもの、杜甫は十四五歳でそうしたサロンに出入りし、その才能をほめられたという、すでに七歳の頃には大志を抱き、九歳の頃には字を書いた、つまり詩文を作ったと自慢する、その詩文は相当な数に上ったらしいが、杜甫はそれらを後世に残すことはしなかった
性豪業嗜酒 性は豪にして業酒を嗜み
嫉惡懷剛腸 惡を嫉んで剛腸を懷く
脱略小時輩 脱略す 小時の輩
結交皆老蒼 交を結ぶは皆老蒼たり
飲酣視八極 飲むこと酣にして八極を視れば
俗物多茫茫 俗物多く茫茫たり
性格は豪放で酒を嗜み、悪を憎んで剛直な志を抱いていた、若い連中とは付き合わず、老蒼の人々と交わった、酒によって世の中を眺めれば、俗物どもがうようよとしている
杜甫は李白のように酒のイメージとは強く結びついていないが、それでも壮年時代には酒を愛したらしく、たびたび酒を飲む詩を作っている、そんな杜甫が酔った勢いで世の中を見渡すと、周りの人々がみな俗物に見える、杜甫自身は経世済民の高い志をもっていたというのだ
東下姑蘇臺 東して姑蘇臺に下り
已具浮海航 已に浮海の航を具ふ
到今有遺恨 今に到るまで遺恨有るは
不得窮扶桑 扶桑を窮むるを得ざること
王謝風流遠 王謝 風流遠く
闔閭丘墓荒 闔閭 丘墓荒る
劍池石壁仄 劍池 石壁仄(かたむ)き
長洲芰荷香 長洲 芰荷香し
東のほうに遊んで姑蘇臺にくだり、大河を船で巡った、今に到るまで残念に思うのは、扶桑を窮めることができなかったことだ、
王謝の風流は今は昔、闔閭の丘墓も荒れたまま、劍池の石壁は傾き、長洲には蓮が芳しく咲いている
杜甫は二十歳以降、各地に放浪の旅に出る、それは唐の時代の文人にとって、己を磨き上げるための通過儀礼のようなものだった、彼らは自分の家で勉学するだけではなく、旅を通じて世界の事を認識し、それを踏まえた上で、官吏登用試験たる科挙に臨んだのである。
杜甫が向かった先は、まず江南であった、船に揺られて大河を巡り、江南の呉、ついで越を旅した、姑蘇臺とは蘇州のこと、かつて呉の都があったところだが、杜甫が訪れたときには、往昔のにぎやかさは感じられなかったらしい
嵯峨閶門北 嵯峨たり閶門の北
清廟映回塘 清廟 回塘に映ず
毎趨呉太伯 呉の太伯に趨く毎に
撫事涙浪浪 事を撫して涙浪浪たり
蒸魚聞匕首 蒸魚 匕首を聞き
除道哂要章 除道 要章を哂ふ
高々にそびえる閶門の北には、廟堂の影が回塘に映じている、ここを訪れるたびに、昔の栄華を思って涙が溢れ出てくる、
蒸した魚に匕首を隠して王を倒そうとした故事を聞き、高官の通るのをみて慌てて道を掃いたという故事を聞いては笑う
ここでは、呉の地に遊んだときの見聞を語る、かつて華やかだった呉の都も今はその面影もない、それを見た杜甫の目には涙があふれるのだ
枕戈憶勾踐 戈を枕にしては勾踐を憶ひ
渡浙想秦皇 浙を渡りては秦皇を想ふ
越女天下白 越女 天下に白く
鑒湖五月涼 鑒湖 五月に涼し
剡溪蘊秀異 剡溪 秀異を蘊(あつ)め
欲罷不能忘 罷めんと欲するも忘るる能はず
歸帆拂天姥 歸帆 天姥を拂ひ
中歳貢舊郷 中歳 舊郷より貢せらる
戈を枕にしては勾踐を憶い、浙江を渡っては秦の始皇帝を想う、越の女は色が白いことで天下に名高く、鑒湖は五月というのに涼しい、
剡溪には秀逸な風景が広がり、忘れようとしても忘れられないほどだ、故郷へと戻る船の帆が天姥の山を払い、壮年のわたしは科挙を受けたのだった
ついで越に遊んだことを語る、越の女は美しい、その越の女西施の美しさに惑わされたために呉王は滅びたのだ、そんな越を去った杜甫は、いよいよ科挙の試験を受ける、二十台半ばのことだ
氣劘屈賈壘 氣は屈賈の壘を劘し
目短曹劉牆 目は曹劉の牆を短とす
忤下考功第 忤(さから)って考功の第に下り
獨辭京尹堂 獨り京尹の堂を辭す
放蕩齊趙間 放蕩す齊趙の間
裘馬頗清狂 裘馬 頗る清狂なり
気は屈賈の志をしのぎ、眼力は曹劉のそれに勝った、ところが科挙の試験に落第し、さびしく京尹の堂を辞した、そして再び放浪の旅に出て斉趙のあたりをさまよった、裘馬が頗る清狂だ
科挙の試験を受けた杜甫だが、ついに合格することができなかった、科挙に合格できないことは、自分の人生に道が開けないことを意味する、
だが杜甫は一度の失敗にめげず、再起を期して再び放浪の旅に出るのである
分りやすく解説して下さって、私はとても興味深く読ませ、楽しませて頂いております。 学校の頃は熱心な良い先生だったにも拘らず、関心がわかず、でも今は 「ああ、こう言う事だったのか」と、当時若過ぎたのですね。自分に余裕が出て来たのかもしれません。 お茶をしてるので、漢詩のこちらでの ”お勉強”が役に立っています。 有難うございます。
誰の作か知りませんか、半世紀以上も前に ”君聞かずや 胡歌の笛 もっともかなしきを” と中学の先生が情感たっぷりに詠んだのを今でも憶えています。