至徳元年(756)10月、粛宗は長安を回復するための軍を出した。宰相の房琯が数万の兵を率いて、長安の西北咸陽近郊の陳陶斜において、安碌山の軍と激突したが、死傷者4万を出す大敗を喫した。さらに陳陶斜に近い青坂で再戦したが、これも大敗した。房琯は文人であって戦のことは知らなかったから、この敗北は当然のことだったといわれている。
この悲報に接した杜甫は、早速筆をとって、「悲陳陶」、「悲青坂」の二編を書いた。
杜甫の七言律詩「陳陶を悲しむ」(壺齋散人注)
孟冬十郡良家子 孟冬 十郡 良家の子
血作陳陶澤中水 血は陳陶澤中の水と作(な)る
野曠天清無戰聲 野は曠く天清くして戰聲無し
四萬義軍同日死 四萬の義軍同日に死せり
群胡歸來雪洗箭 群胡歸り來って雪で箭を洗ひ
仍唱胡歌飲都市 仍ち胡歌を唱へて都市に飲む
都人回面向北啼 都人面を回らせて北に向って啼く
日夜更望官軍至 日夜更に望む官軍の至るを
初冬、十郡の良家の子らが唐のために戦い、その血は陳陶澤中の水となった、野は広々と空は晴れ渡り、戦う声は聞こえない、四万人もの兵士たちが一日にして死んだのだ
群胡が戻ってきて血で矢を洗い、胡歌を歌いながら大騒ぎをする、都の人たちは顔を北のほうに向けて泣く、一刻も早く官軍が助けにきて欲しいと
旧暦十月は初冬である。その冬の陳陶の沢の水を、官軍の兵士たちの血が赤く染める。なにしろ一日にして四万人の兵士が死傷したのだ。勝ち誇った胡軍は長安に戻ってきて、血のついた箭を雪で荒い、市の酒場でドンちゃん騒ぎをしている。それを見た都の人々は顔を背け、行在所のある北の方角を見ては泣くのだ。
杜甫のこの詩は、歴史的な大事件に遭遇したものの、現場感があふれた作品となっている。
関連サイト: 杜甫:漢詩の注釈と解説
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