日本の伝統的木造建築は、ヨーロッパの建築のように、階層を高く積み上げることには向いていなかった、寺社建築にしろ、その他の建築物にしろ、木造建築は平屋であることが普通だった。そこをあえて重層の建物にするには、塔が高くなくてはならぬといった、建築外的な要素が働く場合に限られていた。
しかし日本の木造建築に、二階建てが現れるのはそう新しいことでなない。平安時代末期に作られた洛中洛外図屏風には、二階建てと思われる建物が描かれている。都市が過密化するに従い、必要に迫られるかたちで重層化が始まった例ではないかと推測されている。
しかし二階建ての建物が本格的に現れるのは、近世以降のことだ。やはり京都などの大都市部から始まったらしい。徳川時代になって商人の力が大きくなると、京都のほか江戸や大阪の商業地区でも普及していった。
そこには建築技術の進化があずかっていたと思われる。伝統的な木造建築は、柱の上に梁や桁を載せて土台部分を安定化させ、そのうえに屋根を乗せるという方法をとっていたが、梁桁で固めた構造の上にさらに柱を建て増し、その上に軸組を積み重ねることが技術的に可能になったことが、二階建てを普及させた要因である。
中には巨大な柱をたてて、それを一・二階通して貫通させるようなことも行われたらしい。しかし大部分の二階建ては、柱と梁桁による軸組の構造を二重にしたものと考えられる。
町屋の二階建てが、用地の狭小を補う手法だったのに対して、農村部の二階建ては主に、蚕業など農作業の必要から生まれたものらしい。だから町屋の二階建てとは構造が異なるものが多い。
たとえば白川郷の合掌造住宅は、二階建てといっても、二階の部分は一階と峻別された構造にはなっていない。二階というより屋根裏部屋というのに近い。人々は横に建物を拡大するのではなく、縦に伸ばすことによって、養蚕に都合のよい空間を確保したのだと思われる。
柱と梁桁からなる構造は、理論的には、ある程度の高層化に耐えられる可能性をもっている。軸組の構造を壁によって強化すれば、建物全体は重層化に耐えられるはずなのだ。
実際近年になって超高層ビルが登場した背景には、鉄骨による柱と梁桁の構造がコンクリートの壁と結びついたという技術上の発展がある。従来の西洋建築のように、石組みによる壁構造の技術だけでは、超高層ビルは不可能だったろう。
近世初期の日本においては三階建ての一般住宅も登場した。しかしそれらは主に防火上の理由から、普及しなかった。
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