大田南畝は蜀山人という名でも知られている。むしろその方が通りがよい。蜀山人という名には一種伝説的な響きがあり、昭和の始め頃までは、一休さんと並んで頓知の名人というイメージが流布していたほどだ。パロディがうまく、なんでも笑い飛ばしながら、どこかに反骨精神がある、そうした評判が蜀山人を伝説上の人物に仕立て上げたのだろう。
南畝が蜀山人の号を用い始めたのは、胴座勤務を命じられて大坂に出張して以来である。その辺のいきさつを、山内尚助宛の書簡のなかで次のように述べている。
「人間に落候事を恐れ、銅の異名を蜀山居士と申候間、客中唱和等に暫相用ひ申候、不知者以為真号、呵々」
大坂にいた南畝の周囲にはその名声を聞きつけたものが集まってきて、狂歌の催しを開くようになった、その際に南畝は、昔用いた四方赤良では本職の役柄なにかと不都合だろうと考え、とりあえず銅の異名をとって、蜀山人と名乗ることにした、しかもそれは一時的なことだと、考えていたようである。だが南畝は以後死ぬまでこの号を用いた。
田沼時代の終焉を期に狂歌を捨てて以来、十数年文芸の世界から遠ざかり、ひたすら謹厳居士を決め込んでいた南畝だが、銅座勤務を終えて江戸に戻ってから、再び遊興を始めるようになり、また狂歌、狂文の類にも手を染めるようになった。それらはすべて蜀山人の号を以てなされたのである。
南畝が晩年遊び心を取り戻したのには、ひとつには寛政の改革の重苦しい時代が過ぎて、世の中が再び長閑になってきた事情があったろう。文化文政時代は徳川時代の中でも、もっとも民力が充実し、文芸の花も咲き広がった時代だった。南畝はこうした伸びやかな時代環境にそそのかされるように、昔の遊び心を取り戻したのだといえる。
もうひとつには南畝の懐が豊かになったこともある。南畝は大坂の銅座勤めに続いで、長崎奉行所にも出役したが、これらの役職は膨大な役得を伴っていた。南畝は他の役人に比べれば、そんなにがつがつしなかったようだが、それでも町人からの付届けは拒まなかった。その結果思いもかけず高額の蓄財が可能になった。
南畝は75歳で死ぬまで武士として現役だった。現役としては小役人であり、そこから得られる収入のほうも高が知れていたが、結構豪勢な生活を続けていられた。その物質的な源泉は、銅座勤めと長崎出役による役得が支えていたのである。
徳川時代の下級役人というのは、武士としての決められた俸禄だけでは食っていくこともママならなかった。まして遊びのために金を費やすなど、考えられもしなかった。だから南畝のように役得に恵まれた境遇にありつけたなどとは、武士たるものの誰にとっても垂涎の的だったにちがいない。
現代のスポーツ選手や芸能人たちが時代のヒーローでありうるように、南畝もある意味で時代のヒーローでありえた。
関連サイト:日本文学覚書
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