手の着けられないじゃじゃ馬娘がどのようにして調教されるのか、この劇の真髄はペトルーチオによるカタリーナの調教ぶりにある。観客はペトルーチオが手を変え品を変えカタリーナを手なずけていく過程を、お笑い寸劇を連続して見せられるような、気楽な気持ちで、しかも腹を抱えながら見ることとなる。それは当時の男たちにとって、気の荒い女房を思いのままに操るための、お手本のようなものであった。
ペトルーチオがとった手はまず相手をじれさせることであり、相手の期待と相反する行動をとることだった。婚約をしていざ結婚という段になると、ペトルーチオは旅に出てなかなか帰ってこない。そうすることで待ちわびるカタリーナをじれさせるばかりか、もしかしてそのまま捨てられて世間の笑いものにされるのではないかとの恐怖感を与える。やっと戻ってきてやれやれいよいよ結婚式という段になると、およそ新郎の服装には似合わぬ雑な姿で現れ、新床を省みようともしない。カタリーナのあせりは高まるばかりだ。
そこでカタリーナがペトルーチオに噛み付くと、ペトルーチオのほうではその何倍もの勢いで罵り返す。それだけではない、カタリーナに何も食べさせず、眠らせることもせず、セックスで満足させることもしない。つまり世の中の夫の中でも最も粗暴で無情な態度を示し続けるのだ。そのさまが余りに常軌を逸しているので、観客でさえ面食らうほどだ。
そんな二人をシェイクスピアは周辺の人物に次のように言わせている。
トラーニオ:こんな狂った夫婦は見たことがない
ルーセンシオ:お姉さんのことをどう思いますか?
ビアンカ:気違い女が気違い男と結婚したってところかしら
グレーミオ:まったくお似合いの夫婦ですな(第三幕第二場)
TRANIO :Of all mad matches never was the like.
LUCENTIO:Mistress, what's your opinion of your sister?
BIANCA:That, being mad herself, she's madly mated.
GREMIO:I warrant him, Petruchio is Kated.
妹のビアンカは姉のカタリーナが自分に相応しい気違い男と一緒になったといい、グレーオはそうなったのはペトルーチオがカタリーナに感化されたからだという。いづれにしても、二人の異常な関係はこの劇の進行を彩るスパイスのようなものになっている。
だがそれにとどまっていたら、この劇は単なる笑劇に終わっていただろう。女房が亭主を相手にがみがみという、それに対して亭主がさらに大きな声を上げて罵り返す、こんな光景は別に珍しいことではない。この劇の特徴は亭主のほうから女房に仕掛け、がみがみと罵りたて、それに対して女房が防戦するといった構図が支配していることだ。つまり世間の常識とは反していることがひとつある。
ふたつ目は、女房のカタリーナが、いつの間にか亭主の理不尽さをそれなりに受け入れて、場合によってはそれを手玉にとるようになることだ。つまり並みの夫婦のすれ違いとは異なって、ここでは女房のほうが亭主を操縦して自分の意に従わせるという構図が現れてくるのである。
これはイギリスの笑劇の伝統とはあきらかに方向違いのお膳立てといえる。伝統的な笑劇では亭主が女房のじゃじゃ馬振りを調教するはずであるのに、ここでは女房のほうが亭主の荒馬振りを調教するようになるのだ。
その調教振りの象徴的な場面がある。亭主が太陽を月と言い張るのを巡っての、ふたりの奇妙なやりとりだ。
ペトルーチオ:さあいこう やっとお父さんの家が近づいてきた
月がこんなにも明るく輝いているぞ
カタリーナ:月ですって?太陽でしょ、いまは月明かりのときじゃないわ
ペトルーチオ:こんなに明るく輝いているのは月だ
カタリーナ:こんなにも明るく輝いているのは太陽よ
ペトルーチオ:なら 俺の母親の息子 つまり俺自身にかけて言うが
これは月だ、星だ、何であれ俺がいうところのものだ
でなければお前のお父さんのところにはいかんぞ
さあ馬を引け 引き返すんだ
いつも俺の言うことに逆らってばかりだ 逆らうことしか知らんのか
ホーテンシオ:かれの言うとおりにしなさい でないといけませんよ
カタリーナ:前へ進みましょう もうここまで来たんですから
あなたのいうことに従うわ あなたが月といえば月 太陽といえば太陽
もしもあなたが蝋燭だというのなら
わたしも蝋燭だというわ
ペトルーチオ:俺は月だといったんだ
カタリーナ:わたしにも月に見えるわ
ペトルーチオ:いや違う あれはありがたい太陽だ
カタリーナ:神様に誓って あれはありがたい太陽よ
でもあなたが太陽じゃないというのなら 太陽ではないわ
月は変わりやすいものですもの あなたみたいに
あなたが名づけるとおりに
わたしも呼ぶことにします(第四幕第五場)
PETRUCHIO:Come on, i' God's name; once more toward our father's.
Good Lord, how bright and goodly shines the moon!
KATHARINA:The moon! the sun: it is not moonlight now.
PETRUCHIO:I say it is the moon that shines so bright.
KATHARINA:I know it is the sun that shines so bright.
PETRUCHIO:Now, by my mother's son, and that's myself,
It shall be moon, or star, or what I list,
Or ere I journey to your father's house.
Go on, and fetch our horses back again.
Evermore cross'd and cross'd; nothing but cross'd!
HORTENSIO:Say as he says, or we shall never go.
KATHARINA:Forward, I pray, since we have come so far,
And be it moon, or sun, or what you please:
An if you please to call it a rush-candle,
Henceforth I vow it shall be so for me.
PETRUCHIO:I say it is the moon.
KATHARINA:I know it is the moon.
PETRUCHIO:Nay, then you lie: it is the blessed sun.
KATHARINA:Then, God be bless'd, it is the blessed sun:
But sun it is not, when you say it is not;
And the moon changes even as your mind.
What you will have it named, even that it is;
And so it shall be so for Katharina.
この場面は亭主の勢いに女房が飲まれて屈服しているようにも受け取れる。たしかに最初の頃は亭主に反発していたカタリーナが途中から折れて亭主のいうことに従うようにみえる。それは早く父親を訪ねたいというカタリーナの願望がそうさせたのだとも受け取れる。
しかしよくよく考えるとこのシーンは、名分では亭主を立てながら実質では亭主に自分のいうことを聞かせようとするカタリーナのしたたかさが現れた場面とも受け取れる。
互いに衝突しあってばかりいたら関係はいつまでも安定しないだろう。衝突を和らげて関係を安定させるには、片方が折れるか、あるいは両方が自粛するかしか方法はない。
ここではカタリーナが自分から折れると見せかけて、実はそのことによって自分の思い通りにことを運ぼうとしている。つまり調教されたのはカタリーナではなく、ペトルーチオのほうだったのだ、そうシェイクスピアは訴えているようである。
関連サイト: シェイクスピア劇のハイライト
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