柴宜弘氏の「ユーゴスラヴィア現代史」(岩波新書)を読んだ。先日ボスニア内戦の戦犯として国際手配されていたムラディッチが逮捕されたというニュースに接し、スロヴェニアとクロアチア独立に始まったユーゴ解体と、それに伴うすさまじい民族対立を思い出した。そしてあの殺し合いはいったいなんだったのかと、改めて自分に問いかけてみた。その問いかけの延長として、知識を整理する意味で、この本を読んだ次第だった。
ユーゴ内戦に関する筆者のこれまでの知識は、チトーの死をきっかけにユーゴが解体する過程で、連邦構成民族間に深刻な対立が生じた、中でもクロアチアとセルビアの対立がすさまじかった、時には民族洗浄といわれるような凄惨な殺し合いを伴ったという程度のものだった。
その背景には、第二次大戦中の不幸な歴史がある、その歴史とはナチスの支援を受けたクロアチア人がセルビア人に対して抑圧的な態度をとったことだ、その怨恨がチトーのユーゴ解体の動きの中で爆発した。およそこんな認識で、セルビア人とクロアチア人の人種的な背景などは、あまり理解していなかったように思える。
本書を読んで、セルビアもクロアチアもボスニア・ヘルツェゴヴィナも、もともと異なった民族がすんでいたわけではなかったということを、思い知らされた。セルビア人もクロアチア人も、もともとは同じ言語を話す南スラブ(ユーゴ・スラヴィア)人というべき共通の民族だった。しかしセルビア人はトルコの支配を受け、キリル文字を使い、クロアチア人はオーストリア・ハンガリー帝国の支配を受け、ローマ文字を使っていた、こうした歴史的な事情の違いが、彼らを違った方向に走らせた。
ボスニア人といわれる人々は、南スラブ人の一部がムスリム化したものだ。
こうした事情を考えれば、ユーゴスラヴィアに住む人々はもともと同じ民族だったわけだから、近代になって共通の国家を作る動きが出てきたのはある意で自然なことだったわけである。
だから第一次世界大戦後になると、クロアチアはオーストリア・ハンガリー帝国から独立し、セルビアはトルコから独立し、それぞれ民族主義の高まりの中で、南スラブの統一国家を作ろうとしたのは、根拠のあることだったのである。そしてこの統一国家を主導したのは、セルビア人だった。だがこのセルビア人を中心にした大セルビア国家ともいうべきユーゴスラビアはなかなか一体性を確保できず、つねに内部対立の要素を抱えていた。
同じ民族でありながら、つねにぎくしゃくとしていたのは、やはり文化の違いが原因だ。セルビア人はキリル文字を使い、ロシア正教を信じている。クロアチア人はローマ文字を使いカトリックである。ボスニア人はイスラム教を信じている、という具合に、彼らの間には互いに反発しあう要素がビルトインされていた。
こんな事情が働いて、ユーゴスラヴィアが解体する過程で、三つの要素の間で深刻な対立が生じたわけである。
対立はまず、クロアチア紛争という形で始まった。1991年6月クロアチアが独立宣言をすると、それに反対するセルビア人武装勢力とクロアチア共和国軍との間で内戦が始まる。この内戦は第二次大戦中のクロアチア人によるセルビア人迫害を思い出させ、深刻な憎み合いに発展した。そのうち連邦人民軍がセルビア人保護の名目で対立に介入し、クロアチアとセルビアとの全面的な民族対立の様相を呈した。
クロアチアに続いて、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでも紛争が始まった。セルビア人はクロアチア内に60万人いたとされるが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにはそれを上回る130万人のセルビア人がいたとされる。ボスニアがイスラム国家の色彩を強くすれば、そこに住むセルビア人は民族としてのアイデンティティを失う恐れがある、こうした恐怖感が彼らを内戦へと駆り立てたわけである。
したがって、クロアチア紛争もボスニア・ヘルツェゴヴィナ内戦も、セルビア人問題だったといえる。ユーゴスラヴィア連邦の中で、セルビア人はさまざまな地域に展開していた。それは南スラブの一家の長男という自負心がさせたことだが、ユーゴが解体し、それぞれの民族が自己主張を始めるようになると、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴヴィナに居住していたセルビア人は難民化する可能性を孕んでいたのである。
クロアチアと同時に独立宣言したスロヴェニアにはセルビア人は殆どいなかった。それ故スロヴェニアにおいては、クロアチアにおけるような深刻な民族対立は起こらずに済んだ。
この本を読み終わって、ざっとこんなふうに知識を整理することができた。
クロアチアとセルビアがほとんど同じ言語を話す兄弟同士だったということは、これまであまり意識していなかった。いってみれば、せいぜい津軽と南部の間くらいの相違に過ぎないのに、それが越えがたい壁によって隔てられた敵同士になってしまう。考えてみれば不幸なことだ。
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