リア王の物語は、リチャード三世に始まる歴史劇と同様に、王権を巡る物語ではあるが、こちらは自ら王権を手放した愚かな王の転落と屈辱の物語である。
王権は奪い取るものであって、自ら進んで手放すものではない。王が王権を手放すときは、それは力によってもぎ取られる時なのだ。その当たり前のことを、リア王は気づかなかった。というより気づこうとしなかった、この世には血に裏付けられた無条件の信頼関係があるのだと思いこんだからだ。
しかし世の中には絶対的に信頼できる人間関係などありえない。とりわけ王権が絡む場合には、骨肉相食む醜悪な闘争が生じる。リチャード三世以下の歴史劇のシリーズでシェイクスピアが描き出したのは、そういう世界だった。
それ故、劇の始めから、リア王は破滅を余儀なくされているのだ。それは神が仕掛けた運命などではない。自分で選んだ限りで、自分で自分に仕掛けた罠だった。リア王はその罠に身分からはまることによって、転落への道を転げ落ちていくのだ。
こんなリア王だから、観客には同情する余地もなかろう。王権を手放したらどういうことになるか。それは子供でも知っている。ところがリア王は、自分が王権を手放した後も、自分は王らしく振る舞う権利があると思い違えている。その思い違いを娘らにいやおうなく気づかされ、最後には嵐の吹き荒れる荒野へと放逐されるのだ。
すべてが自分で仕掛けたことだ。別に神々のおぼしめしでもなんでもない。権力に取りつかれた人間が、どれほど非人間的になりうるか。そんなことは誰でも知っていることだ。リア王はそれを、知らぬふりをして、なお王らしく振る舞おうとしたから、都合の悪い状態に、自分で落ち込んでしまったのだ。
こんなリア王をだれもが同情する気持ちにはならない。リア王は劇の初めから滑稽な人物として振る舞っているわけだから。
悲劇のヒーローというには、余りにも切ないではないか。
リア王は王権を手放したことで、丸裸の状態に自らを追い込む。自分から進んで裸になったという意識は、もちろんリア王にはない。しかし王冠がなくなったという状況が、それをいやおうでも思い知らさずにはいない。
最初にそのことを言葉で思い知らせてくれるのは、道化だ。自分が誰からも尊重されなくなったことにいらだったリア王が道化に八つ当たりをする。すると道化は、リア王がもはや何物でもなくなったことを、言葉で指摘してやるのだ。
リア王:誰かわしを知っておるものがおるか? これはわしではない
わしがこのように歩くか?このようにしゃべるか?
リアの目はどこにある?リアの頭は狂ったのか?
分別が眠り込んでしまったのか?そうではないと
誰かいってくれ わしはいったい何者なのか?
道化:リアの影法師さ
KING LEAR:Doth any here know me? This is not Lear:
Doth Lear walk thus? speak thus? Where are his eyes?
Either his notion weakens, his discernings
Are lethargied--Ha! waking? 'tis not so.
Who is it that can tell me who I am?
Fool:Lear's shadow.(1.4)
この道化には、ほかの喜劇作品に出てくる道化(フェステやタッチストーンなど)とは異なり、名前がない。ただの道化と呼ばれるこの道化は、自分は道化であることを知っている限りで、道化を超越している。一方リア王は自分が道化だということを気づいていない。だからリア王の方が道化としてふさわしい役柄を演じているわけだ。
リア王は、自分を粗末にする娘たちに呪いの言葉を浴びせる。
リア王:お前が我が子の姿で現れているさまは
海の怪物の姿よりも恐ろしいわい
KING LEAR:More hideous when thou show'st thee in a child
Than the sea-monster!(1.4)
だが娘たちをそんな怪物にしてしまったのは、父親であるリア王自身なのだ。娘たちも、父親の生きている間に王権を譲られるようなことがなければ、もう少しは父親を大事にしていたはずだ。それがたとえ見せかけの愛情であったにしても。
次々と誇りを傷つけられ、次第に孤立していくのをリア王は感じる。そこから心の中の疼きが狂気へと高まっていくのは時間の問題だ。
リア王:神々よ、わしに忍耐を下され、わしに必要なのは忍耐なのじゃ
この哀れな年寄りを見て下され
年の数ほど沢山の悲しみに取りつかれた老人を
・・・
いや泣くまい
泣きたい理由は山ほどあるが
この心がちりぢりに引き裂かれようとも
決して泣くまい
KING LEAR:You heavens, give me that patience, patience I need!
You see me here, you gods, a poor old man,
As full of grief as age; wretched in both!
. ..
No, I'll not weep:
I have full cause of weeping; but this heart
Shall break into a hundred thousand flaws,
Or ere I'll weep. (2.4)
泣くという行為は、最も人間らしい行為だ。だがこんなにも打ちひしがれ、自尊心を奪われたものには、人間的な感情を吐露する余裕もない。ただ一つできることと云えば、神に訴えるか、あるいは運命を呪うことくらいだろう。しかしリア王の住む世界には神は存在しない。運命ではなく自分で仕掛けたことの結果だけがある。不始末とそれに伴う不幸をひとのせいにするわけにはいかないのだ。
こうして狂気に陥ったリア王は、荒野をさまよう身となる。だがあの道化がいつもリア王に付き添っていて、リア王を破滅から遠ざけてくれる。狂気になるまで張り裂けた苦痛でも、まだ破滅はしていないのだ。
リア王:風よ吹け、頬っぺたを裂いて怒りを吹き付けろ
滝のような雨嵐を吹き付けて
塔という塔 風見鶏という風見鶏をおぼれさせろ
きな臭い鬼火よ
樫の木をへし折る稲妻の火よ
わしの白髪頭を焼き尽くせ
丸い地球を平たく打ちのめせ
恥知らずな人間を産み落とす種を
ことごとく打ちのめすのだ
KING LEAR:Blow, winds, and crack your cheeks! rage! blow!
You cataracts and hurricanoes, spout
Till you have drench'd our steeples, drown'd the cocks!
You sulphurous and thought-executing fires,
Vaunt-couriers to oak-cleaving thunderbolts,
Singe my white head! And thou, all-shaking thunder,
Smite flat the thick rotundity o' the world!
Crack nature's moulds, an germens spill at once,
That make ingrateful man!(3.2)
リア王はしかし、狂気の中でも時折人間らしいことをいうこともある。
リア王:人間は泣きながらこの世に生まれる
そうだろう、生まれて初めて息をすったときに
オギャアオギャアと泣く、さあお前にひとつ説教をしてやろう
グロスター:なんとおいたわしい
リア王:人間がこの世に生まれてきたときに泣くのは
この道化どもの舞台に引き出されたのが悲しいからじゃ
KING LEAR: we came crying hither:
Thou know'st, the first time that we smell the air,
We wawl and cry. I will preach to thee: mark.
GLOUCESTER:Alack, alack the day!
KING LEAR:When we are born, we cry that we are come
To this great stage of fools: (4.6)
リア王の結末は、この悲劇の不条理な側面をさらにきわだたせている。フランス王妃として帰ってきたコーデリアが、イギリスとの負け戦の結果、殺されてしまうのだ。
コーデリアが再登場するまでのあいだに、二人の娘たちによる父親への迫害がクライマックスを迎えているので、コーデリアは芝居のキャラクターとしては、何も死ななくてもよかったはずなのだ。
むしろコーデリアを救いの女神として、リア王に心の安らぎを持たせてやるという演出もあり得たはずだ。その場合にはこの悲劇の悲劇的な性格が多少緩和されるかもしれないが、それでも完全に悲劇らしさがなくなるというわけでもなかろうというものだ。
シェイクスピアはコーデリアを殺すことで、この悲劇のグロテスクな性格を一層強調したかったのかもしれない。
リア王が最後に叫ぶ言葉は以下のようなものだ。
リア王:わしのカワイイ阿呆が殺されたぞ
犬でさえ 馬でさえ 鼠でさえ 生きているというのに
お前はもう生きてわしのところに 戻っては来ぬのだ
二度と 二度と 二度と 二度と 二度と
KING LEAR:And my poor fool is hang'd! No, no, no life!
Why should a dog, a horse, a rat, have life,
And thou no breath at all? Thou'lt come no more,
Never, never, never, never, never!(5.3)
この言葉を叫び終えてから、リア王は死んで、舞台から退場するのだ。
関連サイト: シェイクスピア劇のハイライト
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