« 会津への小さな旅 | メイン | 音便 »


促音(つっぱった言い方)


促音とは、「つっぱり」とか「あっさり」とかいうように、つまった或はつっぱった音のことをさしていう。言語符号としては、「つ」を小さくした「っ」を用いてあらわす。現代の日本語においては、長音と並んで若者たちの受けがよく、「やっちゃった」とか「ぶっとばすぞ」という具合に、極く気軽に使われる。また、「ぎょっ」とか、「はっはっ」という具合に、促音を単独に用いて、ことさらな効果を狙う使い方も横行している。

促音が日本語に現れたのは、拗音と同じく、平安時代であった。これには、やはり漢語の受容が引き金役を果たしている。

当時の漢語にも、四声というものがあって、現代中国語の四声とはだいぶ違ってはいたらしいが、そのうちの一つに入声というものがあった。入声音とは、語尾が p, t, k などの子音で終わる音をいい、短く詰って発音された。十 jip, 易 yek, 仏 but,などがそれに当たる。日本人は、これらをそれぞれ、ジフ、エキ、ブツと表現したが、発音に当たっては、中国音に近く発音したようである。これらの音、たとえば「仏」が続く音節「は」と結びついたとき、「仏は」は「ブッタ」と発音され、また「仏を」は「ブット」と発音されるようになり、いまでいう促音が生じたのである。

p, t, k, の音はいづれも破裂音であるが、摩擦音たる s の音についても促音の現象がおこった。それがいつの頃からか、明らかにはしないが、「一種」や「発生」のような漢語にまず起こり、「あっさり」のような和語に広がっていったのではないか。室町時代の頃には、促音全盛ともいえる状況が生じ、説教節などの口述文学や民衆芸能の世界を彩ったのである。

さて、日本語の促音のもととなった漢語の入声音はその後消滅し、現代中国語の普通話においては認めることができない。また、ロシア語においても、促音に相当する音はない。フランス語においては、詰る音もないわけではないが、どちらかといえば、好んで使われる音ではない。促音が盛んなのは、英語やドイツ語であるが、それでも耳障りになるほど、音を破裂させたり摩擦させたりはしない。

こんな訳で、促音は日本語の大きな特徴のひとつとなっており、小さな女の子でも「ぶっとばす」とか「ぎょっとした」とかの言い方を、何気なくしている。筆者などはそんな言葉遣いを聞くと、それこそ「ぎょっと」させられることがある。促音は、時として言葉に力強さをもたらすが、あまりエレガントな音とはいえないようだ。


関連リンク: 日本語を語る

  • 「ぢ」と「じ」、「づ」と「ず」

  • 音便

  • 長音(チョーかわゆい音)

  • 拗音(曲がった音)

  • らりるれろ(呂律が廻らぬ)

  • 日本語の子音

  • 母音の色(ランボーの詩に寄せて)

  • 日本語の母音

  • 清音と濁音


  • 古代国語の音韻について

  • 日本語の音韻の変遷について

  • 「ハ」と「ワ」―馬鹿の語源

  • 駒のいななきについて





  • ブログランキングに参加しています。気に入っていただけたら、下のボタンにクリックをお願いします
    banner2.gif


    トラックバック

    このエントリーのトラックバックURL:
    http://blog.hix05.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/18

    コメント (1)

    田中 丈雄:

    中学生の時から英語を学んで、其の授業で教科書を
    読まされる時は、完全な日本語的ローマ字読みをしても
    殆ど何も言われなかった。
    ちょっと残念だったと今では思っている。

    言葉の半分の命はその抑揚やリズムにあると思う。
    タモリさんが例えばいかにも中国語に聞こえる偽の中国語
    を喋って笑わしてくれるが、あれにほんの少しまともらしい
    表現が付随しているのと、完璧な文法表現だが抑揚も発音も
    日本語的である表現とどっちがましだろう、と考える。

    外国力士さんは日本に来てたった数年しか経っていないのに
    いかにも日本語らしい発音で喋る人が多いが、一方で、
    日本にやってきて何十年経っても片言のようにしか聞こえ
    ない発音の外国人が非常に多い

    それそれでかまわないのだけど、しかし本人にとっては
    日本の社会では何らかの不利をこうむっているだろう。

    ところで話は変わるのだが、言語の持って
    いる抑揚、リズム、表現方法は、その民族や地方の
    の精神性に影響を及ぼしているだろうと、
    いつも思う。

    大阪弁が大阪人の精神性に何か影響していると思うし、
    津軽弁も同じように、また、ナバホ語も中国もどの
    言語にも独自のクオリア(情緒)を感じる。

    公共心、同情性、残忍性、寛容性、辛抱強さ、
    傲慢さ、忍従性、といった性格に言語は影響しないの
    だろうか

    こういう事を研究をしている人はいると思うのだが
    関連する書籍・論文を耳にはさんだ事が無い

    コメントを投稿

    (いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)




    ブログ作者: 壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2006

    リンク




    本日
    昨日