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佐倉連隊にみる戦争の時代


この夏、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館で「佐倉連隊にみる戦争の時代」と題した企画展が催された。筆者は少年時代を佐倉で過ごし、今でも両親の墓が佐倉にあることから、しばしば佐倉を訪れるが、そんな折にこの展示のあることを知り、立ち寄ってみた。

佐倉に連隊が置かれていたことは、郷土の歴史の一こまとして知っていたし、我が少年時代たる昭和30年代後半まで、兵営の跡やそれを利用した結核療養所が、現在の博物館の敷地に残っていたので、自分の記憶の中では、確固たる重みを持った事実であったのだが、連隊がいかなるものであったか、その詳細については、うかがい知ることがなかった。このたび、この展示を通じて、連隊の歴史に触れるに及び、その実像のすさまじさに圧倒された。

近代国家日本に徴兵制度がしかれたのは明治6年(1873)、その際陸軍第一師団第2連隊が佐倉に置かれた。同時期に東京赤坂に第1連隊が、麻布に第3連隊が置かれている。第2連隊は、千葉、茨城、栃木の出身者から成り、成員は常時ほぼ3000人であった。すべて歩兵からなる連隊である。明治十年に西南戦争が勃発すると、第2連隊は九州に転戦し、西郷軍と死闘を繰り広げている。明治国家が養成した軍隊の、それなりに華々しいデビューといえるものであった。

これ以降、佐倉の連隊は、日本が行った対外戦争の節々で戦い続け、連隊の中核となった千葉県出身の戦死者は、敗戦の日に至るまでの間、実に57000余名に達したのである。他の連隊のことはつまびらかにしないが、通常の成員3000人からなる連隊としては、その数字の重さは想像を絶するものがある。たとえていえば、兵士たちの死体の山を築くために、連隊の歴史はあったともいえるのである。

まず、その歴史をたどってみよう。

佐倉の第2連隊は、日清戦争においては旅順攻略に参戦し、日露戦争においては遼東半島に転戦、旅順総攻撃、奉天会戦に際して多くの死傷者を出した。

明治42年、第2連隊は水戸へ移駐し、佐倉には千葉県出身者のみからなる第57連隊が置かれた。展示ではこのことを称して、郷土の軍隊といっている。郷土の軍隊といっても、その内実は牧歌的とはいえないものだったようだ。野間宏原作の「真空地帯」が映画化された際には、佐倉の連隊が舞台となったが、そこに描かれた兵営での生活は、兵士にとっては過酷な一面もあったようで、内務班におけるリンチや兵士の上下関係などが描かれていた。

昭和11年(1936)、第57連隊は佐倉兵営をたって、ソ満国境を固めるための任についた。ノモンハン事変の際には、連隊中の速射砲中隊が出動して全滅している。第57連隊はソ満国境にとどまり続け、その間、佐倉の兵営は兵士を補給するための、兵士製造工場というべきものに化した。

太平洋戦争の進展にともない、佐倉の兵営からは臨時的な部隊が次々と編成され、中国や南方の各戦線に送られた。

太平洋戦争末期、第57連隊は、ソ満国境から南方に転戦、グアム島とレイテ島において米軍との死闘を繰り広げた。レイテ島において、第57連隊は、圧倒的な戦力差にかかわらず果敢に戦い、米軍司令官をして、「敵のもっとも顕著なる特徴は、射撃の組織的なこと、あらゆる武器の使用の統御にある」と言わしめたほどであった。この絶望的な戦いの中で連隊はほぼ全滅、敗戦の日に生存した者は、わずかに114名だったという。

佐倉に連隊があったことはいまでは大方忘れ去られ、遠い過去のことになってしまったようだ。戦争を憎むものにとっては、兵営は軍国主義の象徴でもあり、そんなことにかかずらうのは、忌々しいことかもしれない。しかし、一国の歴史を正しく認識するためには、こうした部分にも光をあて、絶えず問題意識のうえに取り上げる必要があるのではないか。

少なくとも、佐倉に住む人々にとっては、兵営があったことは、比較的最近まで、多くの人の意識の中心部を占めていたようだ。佐倉では毎年秋に、招魂祭というものが催され、戦死者の霊を弔ってきた。現在では廃止されて行われなくなったようだが、これなどは町と兵営の記憶をつなぐ象徴的な行事であった。筆者の少年時代には、現在佐倉市役所のたっている場所で祭が催され、県下一円から参列者が集まる一方、ロクロ首やヘビ女など、おどろおどろした出し物がかけられていたことを思い出す。

この例のみによらず、佐倉がかつては、まさに兵営を中心に成り立つ町であったということを、この展示を通じて改めて知らされた。兵営は旧佐倉城跡に立地し、その場所は街の中心を占めるものであったために、兵営を取り囲むようにして町屋が展開し、それらの多くは兵営を相手にして生業をたてていた。また、千葉県内の鉄道網を見ると、佐倉を基点にして県内のあらゆる部分と結ばれていることがわかるが、それは兵士とその家族をつなぐための施設であったことが、改めて納得されるのである。

兵営が消えるのと機を一にして、佐倉の町はさびれた。筆者が佐倉に越してきた昭和30年代なかば、佐倉は首都圏では珍しく人口減少地域に分類されていたのである。今日の佐倉は、東京へ通勤するサラリーマンのベッドタウンとして、人口も増え続けつつある。彼らの多くは無論、佐倉に連隊があったことなど、何の興味もないことに違いない。


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    コメント (1)

    御厨敏雄:

    真空地帯作者名は野間博ではなく野間宏ですよね。

    いずれにせよ、大変興味深く読ませてもらいました。
    小生もかって10年ほど佐倉の新興住宅地に住んでおり佐倉に第57連隊あったこと聞いていましたが、明治初期から終戦までこんな過酷な歴史があったことに驚きました。

    勉強になりました。
    深謝。

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