陶淵明の小品「五柳先生伝」は、長らく陶淵明の自叙伝であると信じられてきた。これには、宋書隠逸伝の次のような記述が影響したといわれる。「潛少くして高趣あり,嘗て《五柳先生傳》を著し、以て自ら況す」
「自ら況す」とは、自分を五柳先生になぞらえるということである。五柳先生自体は架空の人物として設定されているが、そこに陶淵明は自分自身を投影した、後世の人々はこう考えたのである。沈約が宋書隠逸伝を書いたのは、陶淵明の死後50年も経たない頃であったから、その説明するところには説得力があった。
作品を読むと、そこには隠者のような生活ぶりと、書を読み酒を愛する人物像が描かれている。これらは、陶淵明が詩の中に描いたところと頗る一致するものがあるので、自分自身を語ったのであると解しても、不自然なところはない。
ひとつ問題として残るのは、陶淵明がこれをいつ書いたのかという点である。自叙伝というからには、晩年に至って己の半生を回想したと解するのが自然の勢いというものだろうが、それにしては辻褄の合わないところもある。
ともあれ、作品そのものにあたってみよう。
先生不知何許人 先生は何許の人なるかを知らず
不詳姓字 姓字も詳かにせず
宅邊有五柳樹 宅邊に五柳樹有り
因以爲號焉 因て以て號と爲す
先生はどこの人かも、本当の名もわからない、宅邊に五本の柳の木が生えているのを以て、五柳先生と号している。一篇は、このようなとぼけた書き出しで始まる。
閑靜少言 閑靜にして言少なく
不慕榮利 榮利を慕はず
好讀書 書を讀むを好めど
不求甚解 甚だしくは解するを求めず
毎有會意 意に會ふこと有る毎に
欣然忘食 欣然として食を忘る
先生は物静かで無駄口をたたかず、また営利を求めない。読書を好むが、そう深く追及するでもない。だが、たまたま意に適う文章に出会うと、欣然として食事を忘れるほどに没頭することもある。
性嗜酒 性酒を嗜む
而家貧不能恒得 而れども家貧にして恒には得ること能はず
親舊知其如此 親舊其の此くの如きを知り
或置酒招之 或は置酒して之を招き
造飮必盡 飮に造らば必ず盡し
期在必醉 期するは必ず醉ふに在り
既醉而退 既に醉ひ而して退くに
曾不吝情去留 曾て情を去留に吝にせず
生来酒が好きであるが、貧乏暮らしでいつも飲めるというわけではない。親類友人が同情してたまに誘ってくれる時には、遠慮なく飲み干し、必ず酔う。しかし酔いが回るとぐずぐずせずに、さっさと引き上げる。
環堵蕭然 環堵蕭然として
不蔽風日 風日を蔽らず
短褐穿結 短褐穿結
箪瓢屡空 箪瓢屡しば空しきも
晏如也 晏如たり
狭い部屋は寂れ果てて、風除け、日除けにもならない。短い上着には穴があいている始末。米櫃や水筒はしばしば空になる。しかし先生は、平然としてうろたえない。
常著文章自娯 常に文章を著して自ら娯しみ
頗示己志 頗る己が志を示す
忘懐得失 懐ひを得失を忘れ
以此自終 此を以て自ら終る
ここでいう文章とは詩文のことであろう。先生は詩を賦しては自ら楽しみ、また己の志を述べる。
かくのごとく、先生の一生は得失にこだわらない、潔いものであった。以上が本文であるが、これには次のような贊がついている。
贊曰 贊に曰く
黔婁有言 黔婁言える有り
不戚戚於貧賤 貧賤に戚戚たらず
不汲汲於富貴 富貴に汲汲たらず
極其言茲若人之儔乎 其れ茲れかくのごとき人の儔(たぐひ)を言ふか
黔婁は春秋時代の隠者、大臣に就任することを拒否し、一生清貧の生活を送った人物である。その言葉に、貧しくともくよくよせず、富を求めてあくせくしないとあるが、それは即ち五柳先生の生き方でもある。
酣觴賦詩 酣觴して詩を賦し
以樂其志 以て其志を樂しましむ
無懷氏之民歟 無懷氏の民か
葛天氏之民歟 葛天氏の民か
酒に酔いて詩を賦し、己の志を楽しむ、その生き様のおおらかなことは、無懷氏或は葛天氏の民の如くである。無懷氏は古代の帝王伏羲の祖先といわれ、その民は貧しいながら安らかな生活を楽しんだ。また、葛天氏は伏羲以前の帝王で、その政治は言わずして信ぜられ、強制なくして行われた。
この贊にあるとおり、五柳先生は清貧に甘んじ、酒を愛し、詩を賦しては己の志を楽しんだ。これは、陶淵明自身が理想として抱いた人物像であるともいえそうだ。陶淵明はこのような理想像を己に課することによって、生き方の目標ともしたのではないか。
ところで、五柳先生伝には、晩年の陶淵明を特徴付ける二つの要素が弱いと、漢学者の一海知義は指摘する。ひとつは躬耕、ひとつは老いである。帰去来を書いて以降、躬耕は陶淵明のライトモチーフであるかのように、繰り返し詩に歌われた。ところが、五柳先生伝は躬耕に言及するところ殆どない。また、老いを嘆き死を恐れることも、晩年の陶淵明に特徴的なことであったが、五柳先生伝は「以此自終」と、ごくあっさりと触れているのみである。
こんなところから、五柳先生伝は陶淵明の比較的若い頃、少なくとも帰去来以前に書かれたものではないかと、一海知義は推論した。筆者にもそのように思われる。