宋書隠逸伝の記事によれば、陶淵明が始めて職らしい職についたのは29歳のとき、江州祭酒というポストであった。地方教育を司る職だったらしい。だがこれはすぐに辞め、次に提供された州主簿というポストも断った。
若い頃の陶淵明は、浪人生活が長かったようだ。東晋は南朝に共通する、家柄がものをいう社会であったので、陶淵明のように家柄の低い者は、立身のチャンスに乏しかったのだろう。
35歳のとき、陶淵明は北府軍に参じたようだ。当時の北府軍は劉牢之が実権を握り、その傘下には後に宋王朝を起こす劉裕もいた。
折から、五斗米道を奉ずる孫恩の乱が会稽を中心に江南を席巻した。孫恩の乱は、亡命政権たる東晋の苛烈な搾取に対して、土着の民衆が立ち上がったものとされているが、劉牢之はこれを武力をもって鎮圧した。
このころの陶淵明の詩に、「始作鎮軍參軍經曲阿作」(始めて鎮軍參軍となりて曲阿を經しときの作)というものがある。「鎮軍參軍」とは鎮軍すなわち司令官の幕僚という意味である。陶淵明はどうやら、劉牢之につてを求めて、直属の部下になったようだ。軍人なら家柄があまり問題にならないといった理由からかもしれない。
曲阿は江蘇省にある土地。孫恩がよった浙江省とは近い距離にあるから、あるいは孫恩軍を追ってのことだったかもしれない。
詩はしかし、血なまぐさいこととは無縁に、田園に生きることへのあこがれを、熱っぽく語っている。四句ごとにまとまりをなしているので、順次読み進んでいこう。
弱齡寄事外 弱齡より事外に寄せ
委懷在琴書 懷ひを委ぬるは琴書に在り
被褐欣自得 褐を被るも 欣びて自得し
屡空常晏如 屡ば空しきも 常に晏如たり
弱齡とは20歳、事外とは俗世間の外。若い頃より仕官せず、浪人生活を送りながら、琴書で気を紛らわしていたことを語ったものだろう。だから貧乏生活が身にしみてしまったという。
時來苟冥會 時 來りて 苟くも 冥會すれば
宛轡憩通衢 轡を宛(ま)げて通衢に憩ふ
投策命晨旅 策を投じて晨旅を命じ
暫與園田疎 暫し園田と疎ならんとす
冥會とは人知を超えためぐり合わせ。やっと仕官できたことを、控えめに語ったものだろう。
眇眇孤舟遊 眇眇たり 孤舟の遊
綿綿歸思紆 綿綿として 歸思 紆(まと)ふ
我行豈不遙 我が行 豈に遙かならざらんや
登降千里餘 登降すること千里の餘
孤舟とあるから、陶淵明は舟で長江を下ったのであろう。故郷に後ろ髪を引かれながら、船を上り下りしつつ、千里の距離をはるばるとやってきた。
目倦川塗異 目は 川塗の異なれるに倦み
心念山澤居 心は 山澤の居を念ふ
望雲慚高鳥 雲を望みては高鳥に慚ぢ
臨水愧遊魚 水に臨みては遊魚に愧づ
だが、ここまで来ると、後にした故郷への思いがますます強まってきた。雲の上には鳥が自由に飛び、水の下には魚が楽しげに泳いでいる。彼らを見ると、自分の今を恥じる気持ちが迫ってくるのだ。
眞想初在襟 眞想 初めより襟に在り
誰謂形迹拘 誰か謂ふ 形迹に拘はらんと
聊且憑化遷 聊か且し 化の遷るに憑りて
終反班生廬 終には 班生の廬に反らん
本当の思いは胸に秘めている。いつまでも形迹(物質的な利害)にかかわっているつもりはない。だが、今のところは成り行きに任せ、いづれは「班生の廬」に帰るつもりだ。班生は後漢書の著者班固の敬称。その班固の言葉に「上仁の廬」というものがある。陶淵明はこの言葉に理想的な生き方を意として込めたのであろう。