辛丑の歳といえば隆安五年(401)、陶淵明37歳。前年には桓玄に仕え、その任務を帯びて都に赴いたりしている。この年の前半には休暇をとって家でくつろいでいたようである。この詩は、休暇を終えて江陵へ赴く途上の作。(赴假は休暇を終えて帰任すること)当時江陵には、荊州刺史桓玄の本拠があった。
尋陽を発った陶淵明は、武漢の西約50キロの地点にある塗口を通り過ぎた際にこの詩を作った。めざす江陵(荊州)までは更に200キロほど進まねばならない。
淵明はここで、待ち受けている任務のつらさと、あとに残してきた田園の生活を対比させながら、ふたたびもとの生活にもどることをあこがれている。
閑居三十載 閑居すること三十載
遂與塵事冥 遂に塵事と冥し
詩書敦宿好 詩書 宿好を敦くし
林園無世情 林園 世情なし
如何舍此去 如何ぞ 此を舍て去り
遙遙至西荊 遙遙として西荊に至るや
30年もの間、閑居して俗世間とは無縁な生活を送ってきた。それが今になって、田園の生活を捨て、はるばる西の荊州まで行かねばならない。
叩栧新秋月 栧を新秋の月に叩き
臨流別友生 流に臨んで友生と別る
涼風起將夕 良風 將に夕ならんとするに起り
夜景湛虚明 夜景 虚明を湛ふ
昭昭天宇闊 昭昭として天宇闊く
皛皛川上平 皛皛として川上平らかなり
懷役不遑寐 役を懷ひて寐ぬるに遑あらず
中宵尚孤征 中宵 尚孤り征く
新秋に舟を漕ぎ出し友人らと別れれば、良風が吹き渡り、水面には夜の空が映し出される。天も川も行く手を照らして明るい(昭昭皛皛はともに明るいさま)。待ち受ける任務を思うと寝られないほどだ、深夜なお孤独な旅を続けねばならない。
商歌非吾事 商歌は吾が事にあらず
依依在耦耕 依依たるは耦耕にあり
投冠旋舊墟 冠を投じて舊墟に旋り
不爲好爵縈 好爵の爲に縈がれざらん
養眞衡茅下 眞を衡茅の下に養ひ
庶以善自名 庶くは善を以て自ら名づけん
自分を売り込むようなマネはしたくはない、(商歌は淮南子にある故事、商歌を歌って権力者に取り立てられたことから、自分を売り込むことのたとえ)本当に望んでいるのは耦耕(仲間とともに耕すこと)だ。辞職して家に帰りたい、地位などなんだ、あばら家でもいい、そこで真を養い、善と呼びうるような人になりたいものだ。
この詩にあるとおり、陶淵明はそう長くは桓玄の幕下にとどまらなかった。この年の冬、母の死を理由に、喪に服す生活に入ったからである。