陶淵明は、南村の居に移ってからも、故郷の柴桑を忘れたわけではなかった。また、故郷からも帰ってくるようにとの呼びかけがあったようだ。
陶淵明は、柴桑の県令からの招きに対して、二編の詩を作っている。一編は、招きに応じて帰りたいとは思うものの、なかなか帰れぬ事情を述べたもので、義煕五年(409)秋の作である。
詩の中で、陶淵明は親戚友人たちに気兼ねして躊躇しているうち、秋がやってきたさまを歌っている。そして人生ははかりがたいものであるから、現在を楽しみたいと強調している。
劉柴桑という人については、詳しいことはわからぬが、劉という姓の柴桑県令であったと思われる。
酬劉柴桑
窮居寡人用 窮居 人用寡く
時忘四運周 時に四運の周るを忘る
櫚庭多落葉 櫚庭 落葉多く
慨然知已秋 慨然として已に秋なるを知る
新葵鬱北墉 新葵 北墉に鬱たり
嘉穟養南疇 嘉穟 南疇に養ふ
今我不爲樂 今我 樂を爲さずんば
知有來歳不 來歳有りないなやを知らんや
命室攜童弱 室に命じて童弱を攜へ
良日發遠遊 良日 發して遠遊せん
貧乏暮らしで大した用事があるわけではないが、時には四季の移り変わりを忘れてしまうこともある、カリンが咲く庭には落ち葉が散り敷き、もう秋だなと感じて悲しい気持ちにとらわれたりする(櫚はカリン、慨然は悲しいさま)
葵が北側の窓辺に鬱そうと繁り、南の田には稲が穂をたれる、今楽しんでおかなければ、来年も無事にあるかはわからぬ、家内に命じて子供らを携え、天気の良い日に外出をしよう(嘉穟は穀物の穂、北墉は北側の窓、南疇は南の田、命室は妻、童弱は幼い子、)
その翌年の春、陶淵明は劉柴桑の招きに応じてようやく旧居に帰り、劉柴桑に和した詩を作った。詩の内容からすると、一人で行ったのではなく、家族をもともなったようだ。
和劉柴桑
山澤久見招 山澤 久しく招かるるに
胡事乃躊躇 胡事ぞ 乃ち躊躇せる
直爲親舊故 直だ親舊の爲の故に
未忍言索居 未だ索居を言ふに忍びず
故郷の山や沢に久しく招かれていながら、何故躊躇していたかというと
親戚や旧友を思って、彼らと離れて一人暮らしをするのがためらわれたからだ(親舊は親戚や旧友、索居は一人暮らしをすること)
良辰入奇懷 良辰 奇懷に入り
挈杖還西廬 杖を挈へて西廬に還る
荒塗無歸人 荒塗 歸る人無く
時時見廢墟 時時 廢墟を見る
ある朝、ふと気が変わり、杖を携えて西の庵に戻ってみた、荒れ果てた道は通る人もなく、時に廃墟が見える(入奇懷は変わった気持ちになる、気が変わるという意味、西廬は柴桑の旧居をさすのだろう)
茅茨已就治 茅茨 已に治に就き
新疇復應畭 新疇 復た應に畭すべし
谷風轉淒薄 谷風 轉た淒薄
春醪解飢劬 春醪 飢劬を解く
弱女雖非男 弱女 男に非ずと雖も
慰情良勝無 情を慰むる 良に無きに勝れり
とりあえず瓦葺きの屋根を修理し、春を迎えた田畑も開墾せねばなるまい、東の風が肌寒いが、どぶろくを飲めば体が休まる、娘は男のようには役にはたたぬが、心を慰めてくれる、(谷風は東風、淒薄は肌寒いこと、春醪はどぶろく、飢劬は飢えと疲れ)
栖栖世中事 栖栖たり世中の事
歳月共相疎 歳月共に相疎なり
耕織稱其用 耕織 其の用に稱ふ
過此奚所須 此を過ぎて奚の須つ所ぞ
去去百年外 去り去りて百年の外
身名同翳如 身名 同じく翳如たらん
俗世間はあくせくとして、落ち着きがなく、時が経つにつれて遠ざかってしまった、いまや農耕することで生計を立てられる、それ以上のことは求めようとは思わない、時が過ぎ去って100年もたてば、身も名も消え去ってしまうのだから(栖栖は落ち着きがないこと、翳如は覆われて暗いさま)