草壁皇子が亡くなったとき、柿本人麻呂が荘厳な挽歌を作って皇太后(持統天皇)に奉ったことについては先に述べた。人麻呂はその後、持統天皇の宮廷歌人として、折節の行事のために儀礼的な歌を作るようになる。
万葉集巻二には人麻呂の挽歌とならんで、「皇子の尊の宮の舎人等が慟傷みてよめる歌二十三首」が収められている。
舎人とは朝廷に直属する比較的下級の身分の官人である。これに対応する立場の女性たちは采女と呼ばれていた。ともに朝廷の雑用などに従事していた。舎人も采女も地方の豪族の子弟たちからなっており、たまに高官の子弟なども含まれていたらしい。
草壁皇子は日嗣の皇子(皇太子)であった。今で言えば東宮にあたる人であったから、多くの舎人たちが派遣されて身辺の雑用に当たっていたものと思われる。舎人たちは身分的には皇子の家臣ではないが、心理的には一体の関係にあったろう。皇子が順調に皇位につけば、出世の機会も待っていたにちがいない。
その舎人たちが主人たる人の死に臨んで、揃って挽歌を作った。万葉集の中には多くの挽歌が収められているが、このような例は他にない。草壁皇子の死がいかに大きな出来事であったかを物語っているようである。
これらの歌を巡っては、従来様々な解釈がなされてきた。特に彼ら舎人と人麻呂との関係については、人麻呂は舎人の一人であったのではないかとか、これらの歌は人麻呂の指導によって作られたのではないかとか、或はまた人麻呂自身が舎人に代わって代作したのではないかとか、色々な推論がなされている。
真相は明らかではないが、これらの歌を読んでまず感ずるのは、歌の調子が統一した雰囲気をもっているということである。だから、これらの歌は別々に作られたのではなく、同じ場所で、いっせいに作られたのではないかと思わせる。
それぞれの歌は巧拙に差があるにしても、なかなか高い水準を感じさせる。こんなところから、人麻呂代作説や人麻呂指導説が出てきたのだろうが、筆者としては素直に、舎人ら自らが作ったものとして受け取りたい。
―皇子の尊の宮の舎人等が慟傷(かなし)みてよめる歌二十三首
高光る我が日の皇子の万代(よろづよ)に国知らさまし島の宮はも(171)
島の宮勾(まがり)の池の放鳥(はなちとり)荒びな行きそ君座(ま)さずとも(172)
高光る我が日の皇子のいましせば島の御門は荒れざらましを(173)
外(よそ)に見し真弓の岡も君座せば常(とこ)つ御門と侍宿(とのゐ)するかも(174)
夢にだに見ざりしものを欝悒(おほほ)しく宮出もするかさ檜隈廻(ひのくまみ)を(175)
天地と共に終へむと思ひつつ仕へ奉(まつ)りし心違(たが)ひぬ(176)
朝日照る佐太の岡辺に群れ居つつ吾等(あ)が泣く涙やむ時もなし(177)
御立たしし島を見る時にはたづみ流るる涙止めぞかねつる(178)
橘の島の宮には飽かねかも佐太の岡辺に侍宿しに往く(179)
御立たしし島をも家と栖む鳥も荒びな行きそ年替るまで(180)
御立たしし島の荒礒を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも(181)
鳥座(とくら)立て飼ひし雁の子巣立ちなば真弓の岡に飛び還り来ね(182)
我が御門千代常磐(とことは)に栄えむと思ひてありし吾し悲しも(183)
東の滝の御門に侍(さもら)へど昨日も今日も召すことも無し(184)
水伝ふ礒の浦廻の石躑躅(いそつつじ)茂(も)く咲く道をまたも見むかも(185)
一日(ひとひ)には千たび参りし東の滝の御門を入りかてぬかも(186)
所由(つれ)もなき佐太の岡辺に君居(ま)せば島の御階(みはし)に誰か住まはむ(187)
あかねさす日の入りぬれば御立たしし島に下(お)り居て嘆きつるかも(188)
朝日照る島の御門に欝悒(おほほ)しく人音(ひとと)もせねば真心(まうら)悲しも(189)
真木柱(まきばしら)太き心はありしかどこの吾が心鎮めかねつも(190)
けころもを春冬かたまけて幸(いでま)しし宇陀の大野は思ほえむかも(191)
朝日照る佐太の岡辺に鳴く鳥の夜鳴きかへらふこの年ごろを(192)
奴らが夜昼と云はず行く路を吾はことごと宮道(みやぢ)にぞする(193)
右、日本紀ニ曰ク、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨セリ。
〔184〕と〔189〕は、茂吉が「万葉秀歌」の中で取り上げている。〔189〕にある「東の滝の御門」とは皇太子のおられた宮殿、そこにこうして控えているが、昨日も今日も召されることがなかった、と主人の不在を素直に歌ったものだ。
(189)は、皇太子のおられた島の御門に朝日が照りつけても、人の声もせずもの悲しいばかりだと歌う。
この二首を含め、一群の歌は主人を失った悲しみを素直に歌っており、人の心に響くものがある。だがこれを人麻呂の歌とするには少し楽すぎると、茂吉はいっている。
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