ブルータスの歴史上の評価は決して高いものではなかった、むしろ低いといったほうがよい。それは彼の所業が民主制の擁護というより、英雄を殺した裏切り者として見られることが多かったからだ。ダンテはその最たるもので、神曲の中では、ブルータスをキャシアスとともに地獄に落としている。
シェイクスピアはこうした歴史上の評価があることを承知しながら、あえてブルータスを肯定的に描き出した。彼は単なる裏切り者ではなく、民主制の擁護に命をかけた崇高な人物だったと主張するのである。
この劇を通覧して気づくことは、構成上シーザーの出番が非常に少ないのに対して、ブルータスの存在感が圧倒的だということである。だから観客はシーザーの動きに即して彼の悲劇を見ているというより、ブルータスの気持ちに即して彼が掲げた大儀とはなにかについて考えさせられるようになっている。この劇の本当の主人公はブルータスであるといってもよいほどだ。
ブルータスの大儀が、他の反逆者仲間と違うところは、それが公というものに依拠している点だ。他の仲間がシーザーを憎むのは、自分たちの利害がシーザーによって踏みにじられるのではないかという利己的な関心からである。それに対してブルータスは国のあり方という公の見地からシーザーに反逆する。そこが彼の所業に正当性を付与している。ブルータスの反逆は個人的な憎しみに立ったものではなく、民主制の擁護という大儀に根ざしたものなのだ。
だからこの劇はシーザーの悲劇であるとともに、ブルータスの悲劇でもある。というのは、ブルータスは大儀のために立ち上がったが、その大儀を真に実現できる前に、アントニーらによって滅びざるを得なかったからだ。ブルータスが命をかけて守った民主制は結局実現されることはなかったのだ。
こう整理すると、この劇は個人の悲劇を扱ったものというより、歴史の悲劇を扱ったものだといえるほどだ。ローマが民主制の伝統を捨てて帝政へと舵を切り替えたことは、歴史上の常識として誰もが知っている。それがローマにとって果たして正しい選択だったのか、こうした疑問は当然ありえる。
歴史上の事実を前提にすれば、このような疑問はナンセンスにならざるを得ないだろうが、ドラマの主題としては、悲劇的な要素に富んだものなのだ。シェイクスピアはそこに目をつけてこの劇を書いたのだろう。
さて、そのブルータスであるが、シェイクスピアは彼の大儀については高い評価を与えているが、一人の人間としての彼の生き方については、手厳しい。シーザーに人間的な弱さがあったと同じように、ブルータスにも人間的な弱さがあった。彼が結局悲劇の主人公にならざるを得なかったのはその人間的な弱さのためだ、こういっているようだ。
ブルータスはこの劇の中でも、シーザーの腹心として描かれており、個人的にはシーザーに信服している。それがキャシアスらの誘いに応じて、シーザーを倒そうと決意する。その動機は先ほども述べたように、公の大儀にある。
しかし公の大儀を持ち出す割にはブルータスの行動には一貫性がない。というより判断に甘さがある。彼がシーザーを殺そうと決心するのは独裁を阻止するためであるが、その独裁はシーザーひとりによって確立されるものではない、そこにはシーザーによる独裁を求める勢力がある、このことをブルータスは見抜けない。
一番いい例はアントニーに対する態度だ。アントニーも危険な男だからシーザーと一緒に殺したほうがよいとキャシアスが進めるのを、ブルータスは認めない。
キャシアス:アントニーもシーザーと一緒に倒そう
ブルータス:それでは我々の大義は血にまみれたものになる、ケーアス
首をはねたあとで手足までもぎ取るのは
怒りにまかせて殺し 殺した後まで憎むようなものだ
アントニーはシーザーの手足に過ぎない
我々は生贄を捧げるものであって屠殺人ではないのだから
シーザーの精神に対してだけ立ち上がればよい
人間の精神には血は流れておらぬものだ (第二幕第一場)
CASSIUS:Let Antony and Caesar fall together.
BRUTUS:Our course will seem too bloody, Caius Cassius,
To cut the head off and then hack the limbs,
Like wrath in death and envy afterwards;
For Antony is but a limb of Caesar:
Let us be sacrificers, but not butchers, Caius.
We all stand up against the spirit of Caesar;
And in the spirit of men there is no blood:
ブルータスはことさらに大儀を持ち出すことで自分の行動を正当化する一方、余計な殺人は控えたいといっている。だがそれが余計なことでなかったのは、後になって自分自身思い知らされるところだ。
ブルータスにとっては、大儀こそが反逆の唯一の名分だから、それにこだわり続けることは不可欠のことと意識されたのだろう。
シーザーを倒した直後、ブルータスは自分らの行為が正当な大儀によるものだと改めて宣言する。それも自分自身に言い聞かせるようにである。
キャシアス:さあ身をかがめて手を洗おう これから先
これと同じ光景がいくたびも演じられることだろう
いまだ生まれざる国において いまだ知られざる言葉によって
ブルータス:いくたびもシーザーの血が舞台を染めることだろう
いまこのポンペイウス像の足元に
塵のようにころがっているこの男の
キャシアス:いくたびもいくたびも
我々の団結振りが思い起こされることだろう
祖国に自由をもたらした男たちとして
CASSIUS:Stoop, then, and wash. How many ages hence
Shall this our lofty scene be acted over
In states unborn and accents yet unknown!
BRUTUS:How many times shall Caesar bleed in sport,
That now on Pompey's basis lies along
No worthier than the dust!
CASSIUS:So oft as that shall be,
So often shall the knot of us be call'd
The men that gave their country liberty.(第三幕第一場)
ついでブルータスは大勢の市民にむかって自分の大儀を高らかに説明する。その言葉には、信念に支えられた人間の確固たる意志がこもっている。
ブルータス:この集まりにいるものの中にシーザーの親しい
友人だったものがいたら その人にわたしは言いたい
ブルータスのシーザーに対する愛は シーザーのブルータスに
対する愛にひけをとることものではなかったと
ではなぜブルータスはシーザーを相手に立ち上がったのか
これがわたしの答えだ
わたしはシーザーを愛しているが それ以上にローマを愛している
シーザー一人が生き残って 残りのものがみな奴隷の境遇になるよりは
シーザーを殺して 残りのものがみな自由であるほうが良い
シーザーがわたしを愛したように わたしも彼の死を嘆きたい
シーザーが幸運であれば わたしもそれを喜びたい
シーザーが勇敢であれば わたしもそれを誇りにしたい
しかしシーザーが野心に駆られているとしたら 殺すほかはない
愛の思いには涙が 幸運には喜びが 勇気には名誉が
そして野心には死が相応しいのだ(第三幕第二場)
BRUTUS:If there be any in this assembly, any dear friend of
Caesar's, to him I say, that Brutus' love to Caesar
was no less than his. If then that friend demand
why Brutus rose against Caesar, this is my answer:
--Not that I loved Caesar less, but that I loved
Rome more. Had you rather Caesar were living and
die all slaves, than that Caesar were dead, to live
all free men? As Caesar loved me, I weep for him;
as he was fortunate, I rejoice at it; as he was
valiant, I honour him: but, as he was ambitious, I
slew him. There is tears for his love; joy for his
fortune; honour for his valour; and death for his
ambition.
ブルータスはこれだけいうと、さっさと舞台からおりてしまい、そのあとをアントニーの手にゆだねる。その結果がどんなふうにして跳ね返ってくるか、十分な考慮をしている気配もない。ブルータスの判断の甘さがもっとも強く現れるところだ。
関連サイト: シェイクスピア劇のハイライト
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