寺島実郎氏が雑誌「世界」六月号に寄稿した小論「戦後日本と原子力」の中で、日本は「米国の核の傘に守られながら、脱・原発は可能なのか」との問題提起を投げかけている。その上で、「脱・原発」を語る人は善良で人道的価値に溢れる人が多いが、その主張には、「<非武装中立論>にも通じる虚弱さを感じる」と言っている。
氏によれば、日本は長らく米国の原子力産業の市場の役割を引き受けてきたが、ここ六年間のあいだに、日米の原子力における関係が一層、というか劇的に変化した。2006年10月には東芝がウェスティングハウスを買収、2007年7月には、日立とGMが原子力分野での合弁事業会社を設立した。さらに、三菱重工が仏アレバと中型原子炉の共同開発を目指す会社(ATMEA)を設立するなど、日本は世界の原子力産業の中核主体になってしまった。
一方アメリカの方は、スリーマイル島の事故以来33年間一基の原子炉も作ってこなかったが、ここへきてジョージア州やサウスカロライナ州で原子炉の新設を認可するなど、「原子力ルネサンス」に動き始めた。その米国にとっては、日本は原子力開発の重大なパートナーの位置づけを持つに至った。実際に日本の協力なしに、米国の原子力産業は動かない、そんな事態が生じているというわけである。
日本が安全保障上で、米国の核の抑止力に大きく依存していることはいうまでもない、と氏はいう。そんな日本が「米国の傘に守られながら、脱・原発を選択できると考えるのか」と問題提起したわけである。
この論文を読んだときに筆者は、面白い発想だとは思ったけれど、それ以上考えるのをやめてしまった。ところが、氏は政府の原子力基本問題委員会の委員に選ばれると、その席でもこの説を開陳したというのだ。(朝日新聞「プロメテウスの罠」)
氏は、「米国の核の傘にとどまって脱原発を進めるという路線は、日本人の多くが考えているとしても、米国が望まないし、同盟のあり方についての複雑な問題を誘発します」と述べ、「軍事としての核は平和利用の核とからみあっている」としたうえで、日本は今後も原子力開発を進めていくべきだと主張した。原発は国策会社に移し、発電の20パーセント近い水準を維持すべきだ、というのが氏の説である。
これは一見筋の通った主張のように言える。たしかに、米国との関係では、軍事としての核と平和利用の核とは、そう簡単には切り離せないかもしれない。しかし、そうだからといって、原子力にかかわる国民の意思よりも、米国の日本に対する利害のほうをまず考慮すべきだということにはならないだろう。
それでは、相手の立場を忖度することにはなっても、日本の利害を真剣に考えることに則つながるわけではない。まず相手の立場を、相手から言われる前に十分に忖度して、相手の機嫌を損なわないようにしよう、というのは敗北主義的な考え方だ。
米国は日本を、原子力産業のパートナーとして考えているかもしれない。だから、日本が脱・原発に走るのは不都合だと考えるかもしれない。しかし、かもしれないという推測だけでは、物ごとはうまくは進むまい。
推測ではなく確実に言えることは、日本国民の大多数が、福島原発事故を契機に原発への恐怖感を強め、できれば脱・原発あるいは減・原発への方向を期待しているということだ。そうした現に聞こえてくる国民の声よりも、まだ聞こえてこない同盟国の利害を優先して考える、というのは、どう見ても尋常な発想だとはいえない。
筆者としては、寺島氏の意見は意見として、「米国の核の傘に守られながら、脱・原発は不可能なのか」と問題提起してみたい。
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