15年前におきた東電女性社員殺害事件について、東京高裁が再審決定をしたうえで、被疑者のネパール人マイナリさんを釈放した。これに対して東京高検はただちに意義を申し立てたが、それに対しては批判の声が大きいようだ。
この事件と裁判の経緯については、昨夜(6月7日)のNHK番組が検証していた。それを見ると、捜査や裁判のプロセスに大きな問題があったことが改めて浮かび上がる。まずマイメリさんの有罪を決定するだけの物的証拠がそろっていなかった、それ故一審の東京地裁では無罪判決が出た。それを東京高裁が覆して有罪としてわけだが、その根拠となったものは、状況証拠と言う名の憶測だけだったというから、この事件は当初から冤罪の匂いを漂わせていたわけだ。
今回の再審決定にとって重要な役割を果たしたのは、被害者の体内から取り出された精液や殺害された部屋でみつかった遺留物のDNA鑑定だった。この鑑定の結果、第三の人物が犯人である可能性が高まり、マイナリさんの再審が決まったわけだ。
解せないのは、なぜ今頃証拠調べが蒸し返されるのか、ということだ。これらの証拠は、事件の当初から押収されていたわけだから、いつでもDNA鑑定ができたにもかかわらず、検察はそれを表に出さなかったのは、証拠隠しだと言われても仕方があるまい。
もっと解せないのは、当時事件の捜査を指導していた警視庁の元捜査第一課長が、自分たちの操作は万全だったといい、東京高検も、自分たちの主張に遺漏はないのだといって、東京高裁に異議を唱えたうえで、引き続き拘留するように求めることまでしたということだ。まさに唯我独尊的な態度で、冤罪についての謙虚な反省がどこにも見られない。
その辺の感覚が、筆者などには到底理解できない。刑事事件というのは、常に冤罪の危険がつきまとうのであるから、有罪の判断は、厳格な証拠調べを前提としなければならない。厳密な証拠がなければ、有罪とすることはできない。これが刑事裁判の鉄則だと思っていたが、日本の司法の現場ではそうではなかった、ということを改めて感じさせられるのだ。
この事件の背景には、外国人への偏見もあったのではないか、そんなことを思わせる部分もある。捜査当局はいったんマイナリさんに目星をつけると、他の可能性への配慮は一切排除して、もっぱらマイナリさんを立件することに神経を集中し、その立件を支える証拠づくりだけに邁進した。ところが、物的証拠は殆どそろわず、むしろマイナリさんの有罪推定を覆すような証拠ばかりがあった。(それが今回のDNA判定につながった)それ故、東京地裁で無罪となったのには十分な理由があったわけだ。
しかるに地裁判決後検察は、控訴手続きとならんで、マイナリ被告の身柄拘束まで求めた。通常一審で無罪となれば、釈放されるのが普通であるのに、引き続き拘留したのはどういうことか。検察側は国外逃亡を防ぐためだといっているが、やはり人権感覚に欠けたやり方だと批判されても仕方がないだろう。
今回も検察は性懲りもなく、ナイナリ被告を引き続き拘留するよう求めたが、さすがに裁判所は許さなかった。
今回のケースは、外国人を冤罪の被害者に仕立てたという点で、後味の悪いものがある。外国人に限らず、刑事被告人は有罪が確定するまでは推定無罪として扱われるべきだし、判決はあくまでも厳格な証拠調べに基づいて下されねばならない。この当たり前のことを、実行できないようでは、日本の司法は国民の理解も、外国からの尊敬も、得られないだろう。
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