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日本文学覚書



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2008年4月 1日

森鴎外晩年の歴史小説

森鴎外の晩年における創作活動は、今日歴史小説といわれているものに収束していく。彼は大正元年51歳のときに、明治天皇の死に対してなされた将軍乃木希典の殉死に触発され、「興津弥五右衛門の遺書」を書くのであるが、これがきっかけになって、殉死に象徴される権力と個我との緊張について思いをいたすようになった。阿部一族以下次々と書き継いだ歴史小説は、その思いを深化させ、検証していく過程ともいえる。

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2008年4月12日

興津弥五右衛門の遺書:森鴎外、乃木希典の殉死を弁蔬す

森鴎外の晩年を飾る一連の歴史小説のさきがけともなった「興津弥五右衛門の遺書」は乃木希典の明治天皇への殉死を直接のきっかけとして書かれたものである。この殉死については、鴎外は日記の中で次のように記している。

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2008年4月19日

森鴎外「阿部一族」:殉死に見る封建道徳の打算的側面

森鴎外は乃木希典の殉死に衝撃を受け、乃木の心情を弁蔬するために、「興津弥五右衛門の遺書」を書いた。というのも、当時の世論は乃木の行為に対してとかく批判的であり、その意義を理解しようとしないばかりか、笑いものしようとする風潮まであったので、鴎外はこのまま見捨てては置けないと考えたのである。だが鴎外は、乃木の殉死を弁蔬しながらも、古来武士の美風とされてきた殉死というものには、単に個人の真情の範囲にとどまらない、複雑な背景があったのだということに気づくに至った。

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2008年4月26日

佐橋甚五郎:鴎外、男の意地を描く

「興津弥五右衛門の遺書」と「阿部一族」を書き上げた森鴎外は、続いて「佐橋甚五郎」を書いた。その上で、この三作を一本にまとめ、「意地」という表題を付して出版した。当初「軼事篇」という表題を考えていたが、書店のアドバイスを容れて改めたのだという。三作の内容を的確に言い当てていると自身考えたのであろう。

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2008年5月 3日

護持院原の敵討:鴎外、忠君愛国思想を斬る

森鴎外は「意地」に収められた三篇の作品の後、「護持院原の敵討」という短編小説を書いた。先の三篇が殉死あるいはそれに象徴される封建時代における武士の体面とか意地をテーマにしていたのに対し、これは敵討というものをテーマに取り上げることによって、封建道徳の内実と、それに呪縛され翻弄される者の運命を描いたものである。

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2008年5月10日

大塩平八郎:大逆事件と森鴎外の体制批判意識

森鴎外が大正二年の十二月に書き上げた歴史小説の第五作目「大塩平八郎」は、それまでの歴史小説とはいささか趣を異にしている。

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2008年5月17日

森鴎外「安井夫人」:女の生き方

森鴎外の小説「安井夫人」は、幕末の漢学者安井息軒とその妻佐代を描いたものである。「興津弥五右衛門の遺書」を皮切りに歴史小説を書き綴ってきた鴎外にとって、その延長上での執筆であるが、それまでの小説とはやや趣を異にしている。テーマというほどのものがなく、息軒とその妻佐代の生涯を手短に淡々と綴ったこの小説は、小説というより、歴史上の人物に関する簡単な史伝といった趣を呈しているのである。

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2008年5月24日

森鴎外「山椒大夫」:献身の愛

「山椒大夫」(さんせう太夫)は、説経や浄瑠璃の演目として古くから民衆に親しまれてきた物語である。安寿と厨子王の悲しい運命が人びとの涙を誘い、また彼らが過酷な運命の中で見せる情愛に満ちた行動が、人間というものの崇高さについて訴えかけてやまなかった。鴎外はそれを現代風の物語に翻案するに当たって、「夢のやうな物語を夢のやうに思ひ浮かべてみた」と書いているが、けだし物語の持つ稀有の美しさに打たれたのであろう。

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2008年5月31日

鴎外の史伝三部作:石川淳「森鴎外」に寄せて

森鴎外最晩年の文業を飾るものは、「渋江抽斎」、「伊沢蘭軒」、「北條霞亭」の、今日史伝三部作と称される作品群である。これらは発表時世人から受け入れられること甚だ薄く、「北條霞亭」にいたっては、連載していた大手新聞社から事実上連載の中断を迫られるほどの扱いを受けた。これらの作品群は鴎外存命中はもとより死後しばらくの間、彼の文業を代表するものとは評価されなかったのである。

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2008年6月 6日

森鴎外「渋江抽斎」

森鴎外が武鑑の収集を通じて、渋江抽斎という歴史上の一人物に出会った経緯については、先稿でも述べたとおりである。鴎外はこの人物が、武鑑という普通の感覚ならあまり面白くもないものに情熱を注ぎ、その傍ら学者として古い文献の考証に力を注いでいたらしいことを知るに及び、俄然その人物への関心の高まるのを感じ、その人物について多くを知りたいと思うようになった。そしてこのような思いがやがて実を結んで、鴎外の最高傑作ともいえる「渋江抽斎」の執筆へとつながっていくのである。

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2008年6月14日

渋江抽斎の妻:森鴎外理想の女性像

森鴎外の史伝体小説「渋江抽斎」において、最も精細を放っている人物は、主人公抽斎本人というより、その妻五百であろう。五百がいなかったとしたならば、抽斎の人生もいっそうわびしく映り、したがってこの小説の面白みは半減してしまったに違いない。それほど彼女の存在感は大きい。しかもこの作品の後半は抽斎没後の家族の消息にあてられ、そこでは五百の存在感は全体を多い尽くすほど大きなものになるのである。

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2008年6月19日

森鴎外「伊沢蘭軒」

森鴎外史伝三部作の第二「伊沢蘭軒」は、「渋江抽斎」の新聞連載終了後、「寿阿弥の手紙」の連載を挟んで、ほぼ一ヶ月後には連載が始められている。鴎外は渋江抽斎について書き進んでいくうちに、抽斎の師であった蘭軒に深い関心を抱くようになり、この人物についてどうしても書いてみたいという強い衝動にとらわれたらしい。

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2008年6月27日

「伊沢蘭軒」に見る鴎外の歴史意識

鴎外の長大な史伝体小説「伊沢蘭軒」は、主人公たる伊沢蘭軒二十一歳の歳、寛政九年(1797)に始まり、孫の棠軒が没する明治八年(1875)で終っている。そのカバーする時代は、蘭軒一族の三代にわたる八十年間である。

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2008年7月 4日

森鴎外「北條霞亭」:文化文政時代の精神を描く

「北條霞亭」は森鴎外史伝三部作の最後の作品であるとともに、彼の著作活動の絶筆ともなった作品である。大正五年十月に新聞紙上に連載を開始して以来、長い中断を置いて、大正十年雑誌「あららぎ」誌上で連載を終了するまで、実に五年余の歳月を要している。しかしてその八ヵ月後に鴎外は世を去るのである。

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2008年7月12日

森鴎外の独逸日記

森鴎外は明治15年2月に起稿した「北遊日乗」に始まり死の年(大正7年11月)まで書き続けた「委蛇録」に至るまで、生涯の大半について日記をつけていた。そのうちドイツ留学中及びその前後に書いたものが四種ある。ドイツへと向かう船旅の様子を記録した「航西日乗」、ドイツ留学中の生活を記録した「独逸日記」、ドイツでの生活のうちベルリンでの最後の日々を記録した「隊務日記」、そして日本へ帰る船旅を記録した「還東日乗」である。

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2008年7月18日

森鴎外の舞姫始末記

森鴎外がドイツ留学から帰国したのは明治21年9月8日である。ところがそれから幾許もたたぬ9月12日に、ドイツ人の女性が鴎外の後を追って日本にやってきて、築地の精養軒に泊まっているという知らせが鴎外を驚愕せしめた。この女性が果たして何者かについて、鴎外自身は殆ど語る所がないが、これこそ彼の初期の傑作「舞姫」のモデルになった女性ではないかとの憶測が、文学史上かまびすしく語られてきた。

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2008年7月26日

夏目漱石のロンドン滞在日記

夏目漱石は33歳の年(明治33年)にイギリス留学を命じられ、その年の10月から明治35年の12月まで、2年あまりの間ロンドンに滞在した。その時の事情を漱石は日記のようなメモに残しているが、あまり組織立ったものではなく、ほんの備忘録程度のものなので、読んで面白いものではない。しかもその記録は明治34年の11月で途切れており、その後の事情については何の記録もない。漱石はロンドン留学の後半はひどいノイローゼに悩まされていたので、日記をつける気にもならなかったのだろう。

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2008年8月 2日

夏目漱石の日欧文明比較:イギリスでの日記から

漱石は二年余りに及ぶイギリス滞在中、ついにイギリス人とその社会に溶け込むことができなかった。あまつさえその後半の一年ほどは、ひどいノイローゼも作用して、下宿に閉じこもって日本人との交際もしなくなった。このため漱石はついに狂ったのだという風評が立ち、それが本国にも聞こえて、学業半ばにして、帰国を命じられるのである。

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2008年10月 4日

成島柳北の西洋旅行記:航西日乗

慶応四年徳川幕府が瓦解するのと命運をともにした成島柳北は、会計副総裁の職を辞し、向島の須崎村に隠居して自らを無用の人と称した。そのときの心境を柳北は「墨上隠士伝」の中で次のように記している。

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2008年10月11日

パリの成島柳北

横浜港を出航して1ヶ月半の船旅をした成島柳北らの一行は、明治5年(1972)10月28日にマルセーユに上陸し、11月1日未明にパリに入った。その時の感動を、柳北は次の漢詩に表現している。

  十載夢飛巴里城  十載夢は飛ぶ巴里城
  城中今日試閑行  城中今日閑行を試む
  画楼涵影淪漪水  画楼影を涵す淪漪の水
  士女如花簇晩晴  士女花の如く晩晴に簇がる

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2008年10月18日

成島柳北と朝野新聞:近代ジャーナリズムの草分け

成島柳北は明治6年に米欧の旅行から帰国すると、一時京都東本願寺の翻訳局の局長を勤めるが、仕事は面白くなかったようで、もっぱら遊興の毎日を過ごした。その遊びの中から「京猫一斑」(鴨東新誌)が生まれている。そして翌明治7年9月に「朝野新聞」の局長に迎えられ、新聞人としての生活を始める。

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2008年10月25日

成島柳北の投獄記:ごく内ばなし

成島柳北は筆禍がもとで讒謗律違反に問われ、明治9年の2月から6月までの四ヶ月間鍛冶橋監獄に収監された。この監獄は前年の12月にできたばかりで、西洋風の作りであった。そこでの四ヶ月間の監獄生活を、柳北は出獄間もない6月14日から24日にかけて、朝野新聞紙上で紹介した。「ごく内ばなし」がそれである。ごく内緒の話という意味だろうか。植木枝盛の「出獄追記」と並んで、明治初年の監獄の様子が伺われる貴重な証言である。

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2008年11月 1日

辟易賦:成島柳北讒謗律を風刺す

成島柳北の奇文「辟易賦」は明治8年8月17日の朝野新聞に掲載された。この年の6月に讒謗律と新聞紙条例が施行され、政府はさっそくそれを適用して、末広鉄腸らの新聞人を弾圧し始めたので、成島柳北はこの文を作って、政府を痛烈に批判したのである。

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2008年11月 8日

柳橋新誌:成島柳北の時代批判

今日成島柳北の文業を正しく評価するものはほとんどいない。その著作のうち書肆に出回っているのは「柳橋新誌」くらいである。これは岩波文庫に収められているほか、いくつかの全集ものにも入っているから、比較的手に入りやすいが、それ以外には、昭和44年に刊行された明治文学全集所収のものが最後で、図書館に行かなければ目にすることができない。

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2008年11月15日

永井荷風の柳北論

永井荷風の小文に「柳北仙史の柳橋新誌につきて」と題する一篇がある。成島柳北「柳橋新誌」成立前後の事情を紹介した文章である。特に初篇に焦点を当てて、それが柳北自身の遊興体験からもたらされたものであることを解明している。

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2008年11月22日

正岡子規:生涯と作品

正岡子規は日本の近代文学において、俳句と和歌を刷新した人物である。これらの伝統文学は徳川時代末期にはマンネリズムに陥り、清新な気を失っていたのであるが、子規はそれを甦らせるとともに、新しい時代の文学形式としての可能性をも拡大した。彼の業績は弟子たちを通じて、今日の短詩型文学を根底において規定し続けている。

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正岡子規の少年時代:子規と松山

正岡子規は慶応三年に伊予松山に生まれた。父親の正岡常尚は松山藩の下級武士で御馬廻りをつとめていたが、明治5年子規が満四歳のときに死んだ。子規はこの父親については殆ど記憶らしいものを持っていなかった。後に「筆まかせ」の中で回想している文章を読むと、大酒が災いして命を縮めたと評している通り、余り愛着を抱いていなかったようである。

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2008年11月29日

正岡子規の修行時代

正岡子規は明治16年の5月に松山中学を退学し、翌6月に東京に向かった。時に15歳の少年に、何がこんなことをさせたのか。

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2008年12月 6日

子規と俳句

正岡子規は生涯に数万の俳句を詠んだ。彼はその中から保存するに耐えると思うものを選び出し、分類した上で手帳に清書して書き溜めた。その数は2万句近くに上る。手帳の1冊目から5冊目までは「寒山落木」と題し、6冊目と7冊目には「俳句稿」と題した。今日子規全集に納められているのは、これらの句が中心になっている。岩波文庫から出ている高浜虚子編「子規句集」もそれから抜粋したものである。

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2008年12月13日

俳人蕪村:子規の蕪村評価

「俳人蕪村」は子規が蕪村の俳句を取り上げ、その句風を詳細に分析したものである。蕪村の俳句史における位置づけは、子規のこの著作によってゆるぎないものになったといえるほど、蕪村研究の上で画期的な業績であった。

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2008年12月20日

柿食へば鐘がなるなり法隆寺:子規の写生句

正岡子規は生涯に夥しい数の俳句を作った。だがその割に名句と呼ばれるようなものは少ない。筆者が全集で読んだ限りでも、はっとさせられるようなものはそう多くはなかった。むしろ退屈な句が延々と並んでいるといった印象を受けたものである。

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2008年12月27日

子規の病

正岡子規が明治22年5月、まだ21歳という若さで大喀血に見舞われ、それを契機にして病気と闘う運命に陥ったことについては、前稿で述べた。またこの病気つまり肺結核が、己自身に子規と名付けさせるきっかけになったことも、前稿で述べたとおりである。

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2009年1月 3日

子規と漱石

漱石は子規の死後数年たった明治四十一年に、雑誌ホトトギスの求めに応じて子規の思い出を口述筆記させた。その中に次のようなくだりがある。

「なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところに遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親類のうちへも行かず、此処に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。」(漱石談話 正岡子規)

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2009年1月10日

子規と鴎外:日清戦争への従軍

近代国家日本の最初の対外戦争である日清戦争が始まると、元来が武家意識の塊であり、しかも新聞記者でもある子規は、自分も従軍したくてたまらなかった。しかし結核をわずらい、体力には自身がなかったため、周囲の反対もあってなかなか実現しなかった。

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2009年1月17日

子規と和歌:歌よみに与ふる書

子規は若い頃から和歌にも親しんでいた。「筆まかせ」のなかの一節で、「余が和歌を始めしは明治十八年井出真棹先生の許を尋ねし時より始まり」と書いているが、実際に作り始めたのは明治15年の頃であり、歌集「竹の里歌」もその年の歌を冒頭に置いている。

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2009年1月24日

和歌の連作:「足たたば」と「われは」(正岡子規)

「歌よみに与ふる書」を発表した子規は、その後も批判に答える形で、「ひとびとに答ふ」などを執筆しながら、自らも和歌作りの実践をしていく。それらは漢語の多用が目立ったり、俳句趣味を和歌に持ち込んだと思われるものがあったり、人の意表をつくような内容のものも多かったが、子規は次第に和歌のなかに自分の世界を作り上げていく。

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2009年1月31日

子規自筆の墓碑銘

子規は明治31年7月に碧梧桐の兄河東可全にあてて書いた手紙に添えて、自分の墓碑銘を送った。

  正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名は升
  又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人
  又ノ名ハ竹の里人伊予松山ニ生レ東
  京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
  馬廻り加番タリ卒ス母大原氏ニ養
  ハル日本新聞社員タリ明治三十□年
  □月□日没ス享年三十□月給四十円

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2009年2月 7日

墨汁一滴:いのちの絶唱

子規は死の前年、明治34年の1月16日から7月2日まで「日本」紙上に「墨汁一滴」を連載した。子規の壮絶な晩年を飾る珠玉の随筆群である。

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2009年2月21日

仰臥漫録:正岡子規最晩年の日記

子規は明治34年の7月2日を以て「墨汁一滴」の連載を終了した後、同年の9月2日から「仰臥漫録」を書き始めた。だがこちらは発表することを意図したものではなく、あくまでも子規の私的な手記であった。それだけにいよいよ死を間近に控えた人間の内面が飾ることなく現れている。

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2009年2月28日

病床六尺:正岡子規の絶筆

明治35年は子規が死んだ年である。その前年「墨汁一滴」の連載をなし終えた子規は、自分の死がいよいよ押し迫ってきたことを痛感し、その気持ちを私的な日記「仰臥漫録」の中でも吐露していたが、幸いにして年を越して生きながらえ、毎年恒例のように訪れてくる厄月の5月も何とか乗り切れそうな気がしていた。そんな子規に新たな連載の機会が与えられた。日本新聞社友小島一雄の計らいだった。

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2009年3月14日

痰一斗糸瓜の水も間にあはず:子規の最期

六年余りの病床生活を経て子規の病態はいよいよ抜き差しならなくなってきた。耐え難い苦痛が彼を苦しめたのである。それにともなって、「病床六尺」の記事も短くなり、また苦痛を吐くものが目立ってきた。死の直前明治35年9月12日から14日にかけての「病床六尺」には、そんな痛みが述べられている。

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