碩鼠:貪欲な搾取者(詩経:魏風)
詩経国風:魏風篇から「碩鼠」を読む。(壺齋散人注)
碩鼠碩鼠 碩鼠 碩鼠
無食我黍 我が黍を食ふ無かれ
三歳貫女 三歳女(なんじ)に貫(つか)へたれど
莫我肯顧 我を肯へて顧みること莫し
逝將去女 逝いて將に女を去り
適彼樂土 彼の樂土に適(ゆ)かん
樂土樂土 樂土 樂土
爰得我所 爰(ここ)に我が所を得ん
詩経国風:魏風篇から「碩鼠」を読む。(壺齋散人注)
碩鼠碩鼠 碩鼠 碩鼠
無食我黍 我が黍を食ふ無かれ
三歳貫女 三歳女(なんじ)に貫(つか)へたれど
莫我肯顧 我を肯へて顧みること莫し
逝將去女 逝いて將に女を去り
適彼樂土 彼の樂土に適(ゆ)かん
樂土樂土 樂土 樂土
爰得我所 爰(ここ)に我が所を得ん
詩経国風:唐風篇から「綢繆」を読む。(壺齋散人注)
綢繆束薪 綢繆(ちうびう)として薪を束ぬ
三星在天 三星天に在り
今夕何夕 今夕何の夕ぞ
見此良人 此の良人を見る
子兮子兮 子や子や
如此良人何 此の良人を如何せん
詩経国風:秦風篇から「蒹葭」を読む。(壺齋散人注)
兼葭蒼蒼 兼葭蒼蒼たり
白露為霜 白露霜と為る
所謂伊人 所謂伊(こ)の人
在水一方 水の一方に在り
溯洄從之 溯洄して之に從はんとすれば
道阻且長 道阻にして且つ長し
溯游從之 溯游して之に從はんとすれば
宛在水中央 宛として水の中央に在り
詩経国風:秦風篇から「無衣」を読む。(壺齋散人注)
豈曰無衣 豈に衣無しと曰はんや
與子同袍 子と袍を同じうせん
王于興師 王 于(ここ)に師を興す
脩我戈矛 我が戈矛(かぼう)を脩めて
與子同仇 子と仇を同じうせん
詩経国風:陳風篇から「衡門」を読む。(壺齋散人注)
衡門之下 衡門の下
可以棲遲 以て棲遲(せいち)すべし
泌之洋洋 泌(ひ)の洋洋たる
可以樂飢 以て樂しみ飢うべし
詩経国風:陳風篇から「東門之楊」を読む。(壺齋散人注)
東門之楊 東門の楊
其葉牂牂 其の葉牂牂(そうそう)たり
昏以為期 昏(ゆうべ)を以て期と為す
明星煌煌 明星煌煌たり
詩経国風:陳風篇から「澤陂」を読む。(壺齋散人注)
彼澤之陂 彼の澤の陂(きし)に
有蒲與荷 蒲と荷とあり
有美一人 美なる一人あり
傷如之何 傷めども之を如何せん
寤寐無為 寤めても寐ねても為すことなし
涕泗滂沱 涕泗滂沱たり
詩経国風:檜風篇から「隰有萇楚」を読む。(壺齋散人注)
隰有萇楚 隰に萇楚あり
猗儺其枝 猗儺(いだ)たる其の枝
夭之沃沃 夭(わか)くして之れ沃沃たり
樂子之無知 子の知ること無きを樂(うらや)む
詩経国風:曹風篇から「蜉蝣」を読む。(壺齋散人注)
蜉蝣之羽 蜉蝣の羽
衣裳楚楚 衣裳楚楚たり
心之憂矣 心の憂え
於我歸處 於(いづく)にか我歸り處らん
詩経国風:豳風篇から「七月」を読む。(壺齋散人注)
七月流火 七月流火あり
九月授衣 九月衣を授く
一之日觱發 一の日は觱發たり
二之日栗烈 二の日は栗烈たり
無衣無褐 衣無く褐無くんば
何以卒歲 何を以てか歲を卒へん
三之日于耜 三の日 于(ここ)に耜(し)し
四之日舉趾 四の日 趾(あし)を舉ぐ
同我婦子 我が婦子とともに
饁彼南畝 彼の南畝に饁(かれひ)す
田畯至喜 田畯至り喜ぶ
楚辞は詩経と並んで中国最古の詩集である。詩経は孔子が当時流布していた詩のうちから300篇を選んで編纂したとされ、周の時代にまでさかのぼるものを含むのに対し、楚辞の方は屈原という天才の詩を中心にして、それよりも後の時代の作品を多く含んでいる。おおむね紀元前300年前後より後の戦国時代末に作られた作品群ということができる。
屈原は中国4000年の文学史の上で、最初に現れた大詩人である。詩経以前の詩は、いずれも無名の庶民によって歌われたものであるのに対し、楚辞に収められた屈原の詩は、一個の天才によって書かれた個人の業績としては始めてのものである。その後中国に現れたすべての詩人たちは、多かれ少なかれ、屈原を自分たちの先駆者とし、模範として仰いできた。
離騷は屈原の代表作である。題意についてはいくつかの解釈があるが、史記は「離憂の如きなり」としている。すなわち「憂いにかかる」という意味である。詩の内容から推して、この解釈がもっとも自然といえる。
楚辞から屈原の歌「離騷」その二(壺齋散人注)
靈氛既告餘以吉占兮 靈氛既に餘に告ぐるに吉占を以てす
歴吉日乎吾將行 吉日を歴(えら)んで吾將に行かんとす
折瓊枝以為羞兮 瓊枝を折りて以て羞と為し
精瓊爢以為粻 瓊爢(けいび)を精して以て粻(ちゃう)と為す
九歌は一種の祭祀歌であると考えられる。湖南省あたりを中心にして、神につかえる心情を歌ったものとするのが、有力な説である。九歌と総称されるが、歌の数は十一ある。
楚辞・九歌から屈原作「東君」(壺齋散人注)
暾將出兮東方 暾(とん)として將に東方に出でんとし
照吾檻兮扶桑 吾が檻を扶桑に照らす
撫餘馬兮安驅 餘が馬を撫して安驅すれば
夜晈晈兮既明 夜は晈晈(けうけう)として既に明らかなり
楚辞・九歌から屈原作「河伯」(壺齋散人注)
與女遊兮九河 女(なんじ)と九河に遊べば
衝風起兮橫波 衝風起こって波を橫たふ
乘水車兮荷蓋 水車に乘って荷に蓋し
駕兩龍兮驂螭 兩龍を駕して螭(ち)を驂(さん)とす
登崑崙兮四望 崑崙に登って四望すれば
心飛揚兮浩蕩 心は飛揚して浩蕩たり
楚辞・九歌から屈原作「山鬼」(壺齋散人注)
若有人兮山之阿 若(ここ)に人有り山の阿(くま)に
被薜荔兮帶女羅 薜荔(へいれい)を被て女羅を帶とす
既含睇兮又宜笑 既に睇(てい)を含みて又宜(よ)く笑ふ
子慕予兮善窈窕 子予の善く窈窕たるを慕ふ
楚辞・九歌から屈原作「國殤」(壺齋散人注)
操吳戈兮被犀甲 吳戈を操(と)りて犀甲(さいかふ)を被り
車錯轂兮短兵接 車は轂(こく)を錯(まじ)へて短兵接す
旌蔽日兮敵若雲 旌は日を蔽ひて敵は雲の若く
矢交墜兮士爭先 矢は交も墜ちて士は先を爭ふ
天問の題意についてはさまざまな説がある。もっともらしいのは、屈原は放たれて山野をさまよううち、楚の先王の廟に天地山川の森羅万象を描いた図を見て、それに詩を供えたとするもので、一種の画賛とする見方である。