ヴィーナス誕生:ランボーの肛門愛
アルチュール・ランボーは、18歳にして10歳年上の詩人ポール・ヴェルレーヌと男色の関係を結んだ。二人の間柄がどのようなものであったか、詳細はわからぬが、両人が残した言葉から類推すると、ランボーのほうが男役を勤めていたようだ。
アルチュール・ランボーは、18歳にして10歳年上の詩人ポール・ヴェルレーヌと男色の関係を結んだ。二人の間柄がどのようなものであったか、詳細はわからぬが、両人が残した言葉から類推すると、ランボーのほうが男役を勤めていたようだ。
シェイクスピア作「ハムレット」の悲劇のヒロイン「オフェリア」は、画家や詩人たちのイマジネーションを刺激してきた。特に、19世紀の中頃に起こったイギリスの「ラファエル前派」は、オフェリアを共通の主題とするかのように、様々な画家がそれぞれ繰り返し描いている。中でもミレイの「水に浮かぶオフェリア」の絵はとりわけ有名だ。
アルチュール・ランボーといえば男色のイメージが強く、子どもの頃から肛門への偏愛を垣間見せてもいたのであるが、女性に対する関心が全くなかったかといえば、そうでもないらしい。
1870年8月末、ランボーは家を出てパリに向かった。金のないランボーは本を売って得た僅かの金で、隣駅のモーオンまで切符を買い、そのまま無賃乗車をしてパリ駅までたどり着いたのである。ランボーの最初の放浪であった。
ランボーが住むアルデンヌ県一帯はフランス北東部に位置し、プロシャとの国境に近いこともあって、普仏戦争の際には戦場と化した。1870年10月末にはメッツがプロシャ軍に降伏、翌年1月1日にはメジェールが降伏、そして2日にはシャルルヴィルが降伏している。
1870年10月7日、ランボーは二度目の家出をする。恐らく金は殆ど持っていなかったのだろう。徒歩でベルギーに向かい、途中知り合いの家に転がり込んで一夜の宿を借りたりしながら、シャールロアまで歩き続けた。
「戸棚」はランボーの詩の中でも、写実的な描写といい、古いものへのノスタルジックな感傷といい、変わった位置を占めている。ランボーの詩には他に、こうした雰囲気の作品は見当たらない。
「夕べの祈祷」はランボーのスカトロジーが現れる最初の作品である。書いたのは、おそらく1870年の暮近くだと思われる。その頃ランボーは、シャルルヴィルに連れ戻されていたが、日常の生活に退屈しきり、周りの空気に我慢ならなかった。
パリ・コミューンの反乱は1871年の3月18日に始まり、5月28日にティエール政権の仮借ない弾圧の下に崩壊した。2ヶ月間も続いた市民による反乱は、社会主義運動の初めての本格的動きとして、世界史に甚大な影響を及ぼす。
ランボーの詩「盗まれた心」は、「酔いどれ船」とともに、彼の初期の詩を代表するものであるが、それが何を歌ったのかについては、さまざまな議論があった。最もショッキングなのは、これが強姦された経験を歌ったものだとする説だ。
ランボーは2度目の家出の際、ドゥーエーのジャンドル家の世話になっている。ジャンドルはイザンバールの親戚であったらしい。ジャンドル家には二人の娘がいて、ランボーは彼女たちの世話を受けた。「虱を探す女たち」は、そんなジャンドル家での思い出を歌ったものである。
「酔いどれ船」は、ランボーの初期の創作活動を締めくくる作品である。ランボーは1871年9月中旬、ヴェルレーヌとはじめて会うのだが、そのときに挨拶代わりにこの作品を携えていっているから、書き上げたのはそれ以前のことだろう。
1871年9月にポール・ヴェルレーヌを訪ねてパリにやってきたランボーは、ヴェルレーヌの妻マチルドに嫌われ、あちこちと知人たちの家に居候しながら、その日暮しを始めた。これ以後、1873年7月に訣別するまで、ランボーはヴェルレーヌと深い関係を続けるのである。
1872年の5月から6月にかけて、ランボーは多産な詩作活動をした。周辺から孤立してパリで生活する手立てを失ったランボーは、いったんシャルルヴィルの家に戻ったのであるが、この年の5月半ばにパリに来てからは、旺盛な創作意欲を示した。ランボーが韻文で創作する最後の時期でもあった。
「至高の塔の歌」は、「涙」や「永遠」とともに、1872年5月、パリのムシュウ・ル・プランス街の屋根裏部屋で書かれた。この部屋のことは、同年6月エルネスト・ドラエイにあてた書簡の中で、ランボーは次のように書いている。
「言葉の錬金術」に「永遠」を載せるにあたって、ランボーは次のように書いている。
「黄金時代」は、アルチュール・ランボーの韻文としては最後のもので、彼の一つの到達点をしめしている。だが、その内容は錯乱に満ちており、なまじな解釈を拒むものをもっている。
ポール・ヴェルレーヌ Paul Verlaine 1844-1896 は、19世紀末のフランスを代表する詩人たちの一人である。この時代のフランスの詩人たちにおおむね共通する特徴として、デカダンという言葉が使われるが、ヴェルレーヌはその言葉に最もふさわしい人物だったといえる。
サチュルニアン詩集 Poèmes saturniens はポール・ヴェルレーヌの処女詩集である。ヴェルレーヌがこの詩集を出版したとき、彼はまだ21歳の青年だった。いわばヴェルレーヌにとっての青春の歌とも言うべきものだが、詩に流れている雰囲気は、青年のものというよりは、人生の辛酸をなめつくした老人の嘆きを思わせる。
サチュルニアン詩集はヴェルレーヌにとっては思春期以降の詩作の総決算であったから、その中にはさまざまな要素が含まれている。中心をなすのはエリーゼへの愛であるが、そのほかの作品にも女への愛を歌ったものが多かれ少なかれ見出される。