林檎畑 Le verger :レミ・ド・グールモン
林檎畑 Le verger :レミ・ド・グールモンの詩集「シモーヌ」Simone から(壺齋散人訳)
シモーヌ 林檎畑へ行こう
枝で編んだバスケットをもって
畑に入るときには
林檎の木に語りかけよう
林檎の季節が来たねと
林檎畑へ行こう シモーヌ
林檎畑へ行こうよ
林檎畑 Le verger :レミ・ド・グールモンの詩集「シモーヌ」Simone から(壺齋散人訳)
シモーヌ 林檎畑へ行こう
枝で編んだバスケットをもって
畑に入るときには
林檎の木に語りかけよう
林檎の季節が来たねと
林檎畑へ行こう シモーヌ
林檎畑へ行こうよ
枯葉 Les feuilles mortes :レミ・ド・グールモンの詩集「シモーヌ」 Simone から(壺齋散人訳)
シモーヌ 森へ行こう 枯葉が落ちて
コケや石畳や小道を覆っているよ
シモーヌ 枯葉を踏む音が好きかい?
レミ・ド・グールモンの最後の詩集「気晴らし」 Divertissement は1912年に出版された。そのときグールモンは50をとっくに過ぎていたのであるが、その老いの情熱の中から、女の妖しい美しさを歌った一連の詩を生み出したのだった。それらはいわば彼にとっての白鳥の歌だったわけである。
レミ・ド・グールモンの詩集「気晴らし」 Divertissement から「不敬の祈り」Oraisons mauvaises を読む。(壺齋散人訳)
Ⅰ
お前の手に神の祝福を 汚れたお前の手に!
お前の手の節々には罪が隠れている
お前の手の白い皮の白っぽい陰の合間には
秘めやかな愛撫の強烈な匂いが染み付いている
お前の指先で死につつある囚われのオパール
それは磔にされたキリストの最後の溜息だ
ステファヌ・マラルメ Stéphane Mallarmé (1842-1898) は、ポール・ヴェルレーヌやアルチュール・ランボーと並んでフランスの象徴主義(サンボリズム)を代表する詩人である。しかし同じく象徴主義の名を冠せられても、マラルメの作品は他の誰にも似ることのない、独特の雰囲気をもっている。言語のシンタックスや意味にとらわれず、言葉の持つ音楽性と形態を自由に展開させたその作風は、歴史的にも先例をみないものである。だから彼は真の意味で、孤高の詩人というに相応しい。
ステファヌ・マラルメの詩「乾杯」Salut を読む。(壺齋散人訳)
この泡と 処女なる詩が
描かれているのは聖餐の杯
彼方ではシレーヌの一群が溺れ
みな身を逆さにしている
ステファヌ・マラルメの詩「あらわれ」Apparition(壺齋散人訳)
月は悲しみに沈んでいた
涙にくれた翼の天使が夢見心地に弓を持ち
湿った花々に囲まれながら ビオラを弾くと
白く咽ぶ音は紺碧の花弁の上をすべっていった
ステファヌ・マラルメの詩「空しい祈り」 Placet futile を読む。(壺齋散人訳)
王女さま! へベが担いだ壺から水が流れ出し
それがあなたの唇を潤すさまが妬ましくて
わたしはわたしで火を使う でも司祭のようにではなく
またセーブルの皿にあなたの裸体を描くこともしない
ステファヌ・マラルメの詩集「苦悩」Angoisse を読む。(壺齋散人訳)
人間の罪に満ちた獣よ 今宵はお前の肉体を
征服するためにきたのではない
またお前の不純な髪を我が接吻で倦怠に包み
悲しい嵐をかき回そうとも思わぬ
ステファヌ・マラルメの詩「鐘を撞く男」を読む。(壺齋散人訳)
鐘が美しい音色をたてて
朝の澄み渡った空気に響き渡り
ラヴェンダーとタイムの花に囲まれ
祈りを捧げる子どもに届く
ステファヌ・マラルメの詩「マラルメ夫人の扇」 Éventail de Madame Mallarméを読む。(壺齋散人訳)
言霊を振り放つような
あなたの扇の一振りが
未来の詩句を解き放つ
その貴重な棲家から
ステファヌ・マラルメの詩「マラルメ嬢の扇」 Autre Éventail de Mademoiselle Mallarmé を読む。(壺齋散人訳)
夢多き子よ 道なき道をたどり
お前の純粋な喜びのうちに浸れるように
嘘でもよいから言っておくれ
私の翼をお前の手で受け止めてくれると
ステファヌ・マラルメの詩「エドガー・ポーの墓」Le Tombeau d'Edgar Poe を読む。(壺齋散人訳)
ついに永遠が彼自身の姿となって現れたかのように
詩人が諸刃の剣を振りかざして起き上がると
同時代人たちは改めて思い知らされるのだ
この奇怪な声の中に勝ち誇っている死のことを
ステファヌ・マラルメの詩「ボードレールの墓」Le Tombeau de Baudelaire を読む。(壺齋散人訳)
埋まった宮殿の排水口の奥にのぞいているのは
墓の中からよだれのように染み出たガラクタども
ぞっとするようなアヌビスの彫像
その獣のようにとがった鼻面
ステファヌ・マラルメの詩「ヴェルレーヌの墓」Tombeau (de Verlaine) を読む。(壺齋散人訳)
黒い墓石が吹きまくる北風に怒る
それでも存在することをやめず 背教の点でなら
自分は人間の悪意に似ていると感じて
死者の遺影に冥福を祈るのだ
牧神の午後はマラルメ畢生の傑作というべき作品であり、通常の文法を軽視した独特の言葉配置、またその言葉の流れの音楽性において、際立った特徴を有している。クロード・ドビュッシーはこの詩の音楽的な美しさに感動し、同名の有名な曲を作り、また20世紀の詩人たちにも限りないインスピレーションを与えた。
マラルメはボードレールに倣って散文の詩もつくった。それらはあまり多い数ではないが、いづれもマラルメらしさが現れている。散文といいながら音楽性にこだわり、書かれている内容も難解きわまるものだ。マラルメはそれらの散文詩をまとめて、「綺語詩篇」Anecdotes ou Poemes と名付けた。
ポール・ヴァレリー Paul Valéry (1871-1945) は、大詩人であるとともに20世紀のフランスを代表する偉大な知性として認められている。その活動は、詩や文学のほか、音楽をはじめとした多彩な芸術分野、歴史、哲学、数学など様々な領域に渡っており、生涯に渡って知の巨人というに相応しい活動振りを見せた。
糸を紡ぐ女 LA FILEUSE(ポール・ヴァレリー:壺齋散人訳)
青い空がのぞいている窓辺で毛糸を紡ぐ女
外では花壇がメロディアスに揺れている
古い糸車の単調な音に女はうっとりとした
友愛の森 Le bois amical (ポール・ヴァレリー:壺齋散人訳)
わたしたちは純粋な事柄を考えていた
道々 肩を並べて歩きながら
わたしたちは互いの手を握っていた
言葉少なに 名も知らぬ花に囲まれ