「敬語」と一致するもの

日本語は比較的に変化の激しい言語に属しているとは、筆者もかねがね思っていたところだ。徳川時代に書かれた近松門左衛門や井原西鶴の文章を、たとえば村上春樹の書いた文章と比較してみれば、わずか300年くらいの時間の流れの中で、日本語の表現が随分と違ってきたことが納得されよう。ジョン・ダンの書いた英語が現代イギリス人にも身近に理解されるのとは、かなり違うことだけはたしかなようだ。

岩波国語辞典の編集者水谷静夫氏の「曲がり角の日本語」(岩波新書)を読んだ。岩波国語辞典の初版から第7版まで編集したとあって、その間の日本語の変遷をずっと見つめてきた、そんな人が書いた日本語批判だから、なかなか説得力がある。

「から騒ぎ」の中ではベネディックと並んで道化的な人物がもうひとり出てくる。警察官のドグベリーだ。警察官に犬の名を与えたのはシェイクスピア一流の才気からだろう。だがこの男は単純な道化ではない。劇の中で重要な役割を果たす上に、言葉の誤用 Malapropism を通じて複雑な笑いをもたらす。

「とんでもございません」とは良く使われるいい方だ。かくいう筆者も使ったことがある。あることがらを強く否定するときに用いられる。たとえば「あなた、わたしを馬鹿にしてるんですか」と気色ばった相手に対して、「とんでもございません」という風に。

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ユニークな言語学者野口恵子女史が、敬語の乱れの一例として「を入れ」言葉を取り上げている。「を入れ」とは、「有権者の皆さんとお会いをいたしました」のように、「お会いいたしました」とすべきところを、わざわざ「を」を入れて「お会いをいたしました」と表現する類の言い方だ。

言語学者野口恵子女史の著作「かなり気がかりな日本語」(集英社新書)を読んで裨益させられるところが多かった。題名から連想されるように、日本語の乱れを論じたものだが、女史はそれを単なる愚痴に終わらせずに、個々の実例を丹念に分析することによって、日本語の乱れの背景に法則性のようなものを追求しようとしている。そこのところが、筆者にはすがすがしく感じられた。

最近の若い人は、「それでは座らさせていただきながら、ご説明を申し上げさせていただきたいと思います。」などという言い方をする。筆者などは「座って説明致します」で十分丁寧な言い方だと思っているので、こういう言い方は非常にくどく聞こえる。そのうえ、文法上は「座らせて」というべきところを「さ」を加えて、「座らさせて」といっている。くどさもここまでくれば笑えない。

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