「日本語」と一致するもの

語基と擬態語

阪倉篤義氏は、日本語の副詞表現のなかから、いくつかの特徴的なグループをあげている(日本語の語源)。
A~うっかり、ひっそり、ほっそり、にっこり、うっとり、にったり、こっそり、しっとり、ねっとり、のっそり、はっきり、べったり、むっくり、めっきり
B~しんみり、ほんのり、やんわり、ひんやり、まんじり、のんびり
C~すらり、ちらり、ゆらり、たらり、からり、きらり、そろり、ぐにゃり、ずばり

男女の性別を表す日本語として、「おとこ」と「おんな」という一対の言葉があるが、語源を遡ると、もともと別の系統の言葉だったらしい。「おとこ」は古代では「をとこ」といい、「をとめ」とともに男女一対の言葉だった。それに対して「おんな」のほうは、古代語では「おみな」といい、それが「おうな」を経て「おんな」になった。「おみな」に対応するのは「おきな」である。

京言葉の「そやさかいに」は、関東で「そうだから」にあたる。「そやさかいに」の「そや」の部分は「そうや」が短縮した形で、「そうだ」あるいは「そうじゃ」と同じ意味である。京言葉の歴史をたどると、「そうだ」が最も古く、次に「そうじゃ」となり、いまでは「そうや」が支配的になった。

愚かな人間をさしていう言葉「バカ」は、古語で愚かなことや人を意味する「ヲコ」が、音便作用によって生じた言葉だとする柳田国男の説を、このブログでも紹介したことがあるが(「馬鹿の語源」)、その際、「アホウ」と言う言葉については、とくに問題意識をもつようなことはなかった。ところが、この言葉も「ヲコ」の転訛したものだという説を知るに及んで大いに驚いたことがある。

万葉集に収められた「葛飾の真間の手古奈」の悲しい物語。この物語のヒロインの名前を「手古奈」というのだが、この「テコナ」とは、チョウチョを表す言葉だった、と言語学者の堀井令以知氏がいっている。

たそがれとゆうべ

黄昏(たそがれ)が「誰そ彼」から発していることを指摘したのは柳田国男である。日が沈む前後の時間帯は、あたりが薄暗くなるので、人々はすれ違う時に、「誰そ彼」つまり「あなたは誰ですか」と言い合いながら、コミュニケーションを図った。そこから日没時を「たそがれどき」というようになり、それが「たそがれ」になったというのである。

山口仲美さんの本「犬はびよと鳴いていた」(光文社新書)を読んだ。山口さんは日本語の歴史的な発展過程に造詣が深いらしく、この本の中では擬音語や擬態語の歴史的な様相に光をあてていた。題名にある犬の鳴き声の考察では、室町時代まで、犬は「びよ」と鳴いており、それが江戸時代に「ワン」と鳴くようになったのは、犬の生活様式の変化と関係がある、などと凡百には気づかないことをあきらかにしてくれる。

話し言葉・書き言葉を通じて、平安時代までと中世とではちょっとした断絶がある、と言語学者の山口仲美氏はいう(日本語の歴史)。平安時代までの日本語がきわめて情緒的な性格を帯びていたのに対して、中世以後の日本語は次第に論理を重んじたものになっていく、というのである。その過程で、日本語のきわめて顕著な特徴であった係り結びが、中世には次第に用いられなくなり、ついには滅び去ってしまった、氏はそうもいう。

話し言葉と書き言葉

山口仲美著「日本語の歴史」(岩波新書)は、話し言葉と書き言葉の相互作用を中心に日本語の歴史を取り上げたものである。

「昭和天皇は言語能力が低かった」、こんな趣旨のことを丸谷才一さんが「ゴシップ的日本語論」という小文の中で書いている。丸谷さん自身は昭和天皇について詳しく研究したわけではないらしいので、その説は鳥居民氏(昭和二十年)とハーバート・ビックス氏(ヒロヒトと近代日本の形成)の研究をよりどころにしている。

「僕は文章を書く方法というか、書き方みたいなものは誰にも教わらなかったし、とくに勉強もしていません。で、何から書き方を学んだかというと、音楽から学んだんです。それで、何が大事かっていうと、リズムですよね。文章にリズムがないと、そんなもの誰も読まないんです。前に前にと読み手を送っていく内在的な律動感というか・・・」

ゴーン日産社長の年間報酬が10億円を突破するそうだ。10億円と言われても、筆者のような貧乏人には実感がわかない。当のゴーン氏によれば、別に取り分けて高い金額ではなく、世界の相場からすればリーズナブルな金額なのだそうだ。

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「中国大学入試、繁体字など非規範文字の使用厳禁」という見出しの記事が人民網の日本語版にあったので、興味を覚えて読んだところ、驚いたというか、中国人のおおらかさを感じとって、微笑を禁じ得なかった次第だ。

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アメリカ映画「ファミリー・ツリー(Descendants)」を見た。ファミリー・ツリーといっても、先祖探しの話ではない。寝取られ亭主の話だ。最愛だと思っていた妻がボート事故で重体に陥り、二人の娘を残して死にゆく事態に直面した亭主が、妻が実は他の男と浮気をしていたということを、ほかならぬ自分の娘から聞かされる。そこでショックに見舞われた亭主が、娘たちと一緒に妻を寝取った男の行く方を追っているうちに、次第に父娘の連帯感を醸成していくという、なんだか訳のわからない筋書きの映画なのだ。しかし、訳が分からないなりに、面白く作られている。

日本語は比較的に変化の激しい言語に属しているとは、筆者もかねがね思っていたところだ。徳川時代に書かれた近松門左衛門や井原西鶴の文章を、たとえば村上春樹の書いた文章と比較してみれば、わずか300年くらいの時間の流れの中で、日本語の表現が随分と違ってきたことが納得されよう。ジョン・ダンの書いた英語が現代イギリス人にも身近に理解されるのとは、かなり違うことだけはたしかなようだ。

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ロバート・スキデルスキー氏は著名なケインズ研究者である。原著で全3巻、2000ページを超える大著「ジョン・メイナード・ケインズ」をはじめ、ケインズに関する膨大な著作がある。生涯をケインズ研究に捧げたといってよい。

岩波国語辞典の編集者水谷静夫氏の「曲がり角の日本語」(岩波新書)を読んだ。岩波国語辞典の初版から第7版まで編集したとあって、その間の日本語の変遷をずっと見つめてきた、そんな人が書いた日本語批判だから、なかなか説得力がある。

偽娘:中国版ニューハーフ

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生物学的には男として生まれながら、女としての性同一性を感じる人々を、最近の日本語ではニューハーフというのだそうだ。女として生まれながら、男としての性同一性を感じる人々については、そうはいわないらしい。もともと芸能界起源の言葉だという。

ウディ・ガスリー(Woody Guthrie)のアルバム「ダストボウル・バラッズ(Dustbowl Ballads)」から「プリティ・ボーイ・フロイド(Pretty Boy Floyd)」(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  さあ おいでよ 子どもたち
  話してやるからさ
  オクラホマのおたずねもの
  プリティ・ボーイ・フロイドのことを 

「クルーグマン教授の経済入門(日経ビジネス文庫版)」を読んだ。ポール・クルーグマンが一般読者向けに書いた初めての入門書を、山形浩生という一風変わった人が日本語に訳したものだ。一風変わっているというのは、訳し方が尋常ではなく、ふざけ半分のような印象を与えるからだ(橋本治氏の桃尻語の影響を受けているらしい) しかしけっこう読みやすく訳せている。

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