高砂:世阿弥の脇能
「高砂」は世阿弥の書いた脇能の傑作である。全編が祝祭的な雰囲気に満ちており、祝言の能として長く人びとに愛されてきた。「四海波」や「高砂や」の一節は、今でも結婚式の席上で謡われている。能に関心のない人でも、知らない者はないであろう。とにかく目出度いものなので、正月を飾るものとして最も相応しいといえる。
「高砂」は世阿弥の書いた脇能の傑作である。全編が祝祭的な雰囲気に満ちており、祝言の能として長く人びとに愛されてきた。「四海波」や「高砂や」の一節は、今でも結婚式の席上で謡われている。能に関心のない人でも、知らない者はないであろう。とにかく目出度いものなので、正月を飾るものとして最も相応しいといえる。
能「羽衣」は、天女伝説に題材をとった作品である。天女あるいは羽衣の伝説は、日本の各地に広く分布しており、また、歴史的に見ても、古風土記に取り上げられるほど古い起源のものである。能はそのうち、三保の松原に伝わる伝説を取り上げている。世阿弥の作という説もあるが、詞章や音楽的な要素から見ると、その可能性は低い。だが、明るくあでやかな能であり、正月を飾るものとしてよく演じられる。
能「百萬」は、観阿弥の作とされ、それに世阿弥が手を加えて今日の姿になったとされる。観阿弥自身は、この曲を「嵯峨女物狂」と題して、得意にしていたという。子別れと女の狂いをテーマにした作品だが、悲しさや暗さはなく、むしろ全曲が華やかな色彩感に溢れている。そのため、正月にもよく演じられる。
能「海人」は、「申楽談義」に「金春の節」とあるので、世阿弥以前の古い能のようである。当の金春流では、この作品は多武峰への奉納のために作られたと伝えているらしい。金春に限らず、大和四座と呼ばれた申楽は、多武峰への奉納を義務付けられていた。多武峰は興福寺、春日大社と並んで、藤原氏とかかわりの深いところであったから、藤原氏ゆかりの伝説を能に仕立てたのではないか。
世界中に現存する伝統芸能のうちでも、能は格別に古い歴史を有する。観世流の源流たる大和の結崎座が立てられたのは14世紀半ば、今熊野において催された観阿弥の猿楽が、将軍足利義満の目に留まったのは1375年のこととされているから、そこから数えても600年以上も経っている。
観阿弥は猿楽中興の祖であり、今日に伝わる能楽の元祖ともいうべき人物である。室町時代初期、農民層を相手に細々と興行していた猿楽を、一躍表舞台の芸能に引き上げ、また、自身いろいろな試みを通じて、その芸術性を飛躍的に高めた。その子世阿弥とともに、能楽が日本の代表的な芸能として長く栄えていくための、礎を築いたのである。
世阿弥が能楽の発展のために果たした役割には偉大なものがある。その業績は多岐にわたるが、なかでも重要なのは、複式夢幻能という様式を完成させたことだ。観阿弥以前の能楽は、観阿弥自身物真似といったように、世俗的な内容のものか、あるいは寺社の祭礼に事寄せて、鬼や神を演じるというのもであった。世阿弥の夢幻能によって、能楽は表現を深化させ、一層幽玄なものとなったのである。
NHKテレビ恒例の新春能番組が、今年は意外にも「翁」を放送した。「意外にも」というのは、「翁」は能にして能にあらずといわれるように、通常の能楽とは異なり、筋らしい筋もなく、呪術的で単調な舞が続くのみの、どちらかというと、あまり面白くない番組だからだ。
菊慈童は、菊花の咲き乱れる神仙境を舞台に、菊の花のめでたさと、その菊が水に滴り不老不死の薬になった由来を語り、永遠の美少年の長寿を寿ぐ曲である。リズミカルな謡に乗って、美少年が演ずる舞は、軽快で颯爽としており、この曲を魅力あるものにしている。華やかな舞尽くしの能である。
能「屋島」は、世阿弥の書いた修羅能の傑作である。世阿弥は三番目物と同じく、修羅物も得意とし、他に、通盛、敦盛、清経などの傑作を作っている。その中で屋島は、源平合戦における義経の勇敢な戦いぶりを描いたもので、勝修羅と呼ばれる。田村、箙とならんで三大勝修羅とされ、徳川時代には武家たちにことのほか喜ばれた。
能「融」は世阿弥の傑作の一つである。歴史上の人物源融が作ったという六条河原院を舞台に、人間の栄光と時の移り変わりを、しみじみと謡い語る。筋らしい筋はないが、月光を背景にして、静かに進行する舞台は、幽玄な能の一つの到達点をなしている。だがそれだけに、初めて能を見る人は退屈するかもしれない。
能「熊野(ゆや)」は、花見遊山をテーマにした、春の気配溢れる逸品である。「熊野松風に米の飯」といわれ、古来能の名曲とされてきた。今でも人気の高い曲で、能役者にとってもやりがいのある曲だそうだ。謡曲としても人気がある。松風が秋の能の代表作とすれば、熊野は春の能の代表作だといえよう。
能「小鍛冶」は祝言性の高い切能の傑作である。わかりやすい筋書きに沿って、動きのある舞が華やかな舞台効果を作り上げる。囃子方と謡も軽快でリズミカルだ。全曲を通じて観客を飽きさせることがなく、現在でも人気曲の一つとなっている。始めて能を見る人でも十分に楽しめ、それだけに上演頻度も高い。
能「田村」は、坂上田村麻呂を主人公にして、清水寺創建の縁起物語と田村麻呂の蝦夷征伐を描いた作品である。観音の霊力によって敵を蹴散らす武将の勇猛さがテーマとなっており、明るく祝祭的な雰囲気に満ちた作品である。屋島、箙とともに、三大勝修羅とされ、祝言の能としても演じられてきた。
能「国栖」は、壬申の乱に題材をとった物語性豊かな作品である。壬申の乱自体、古代の王権を巡る戦いとしてドラマ性を帯びた事件であったが、ことが王権にかかわるだけに憚り多いうちにも、この作品はその辺の事情を踏まえて、演劇的な構成に纏め上げられている。現代人にもわかりやすく、人気のある能の一つである。
信濃の更科は古来月見の名所だったらしい。これに何故か姨捨の悲しい話が結びついて、姨捨山伝説が出来上がった。大和物語に取り上げられているから、平安時代の前半には、人口に膾炙していたのだろう。今昔物語集も改めて取り上げている。能「姨捨」は、この説話を基にして、老女と月とを情緒豊かに描いたものである。
能「蝉丸」の創作経緯にはわからぬことが多い。猿楽談義に「逆髪の能」として出てくるものが、「蝉丸」の原型であっという説がある。現行曲の「蝉丸」も、シテは逆髪になっているから、蓋然性は高い。そうだとすれば世阿弥以前からあった古い能ということになる。
能「弱法師(よろぼし)」は、難波の四天王寺を舞台にして、盲目の乞食俊徳丸と、故あって俊徳丸を捨てた父親との、再会と和解を描いた作品である。
狂言は歴史的には能とともに歩んできた。現在では、能と狂言を合わせて能楽と呼び習わしているが、そう称されるようになったのは明治時代以降のことで、徳川時代以前には申楽と呼ばれていた。明治政府が外国人をもてなす演目として申楽を選んだ際、名称が風雅に欠けるというので、能楽の字をあてたのである。
能は日本人が世界に誇りうる古典芸能である。既に14世紀には完成の域に達していたから、600年以上もの歴史を有する。