正岡子規の随筆に、「死後」と題する一篇がある。死の前年、明治34年の2月に書かれた作品である。晩年の子規は、20台半ばにかかった結核がもとで脊椎カリエスを患い、常に死と向かい合った毎日を送っていた。カリエスが悪化して、腰に穴が開くほど苦しい目にあいながら、結核菌が頭脳を明晰にしたためか、創作意欲は衰えることなく、「病床六尺」を始めとして、死に至るまで名品を生み出し続けた。そんな子規が、自分の死を、埋葬に事寄せて語ったのがこの作品である。全篇に子規持ち前のユーモアがあふれ、実にすがすがしい読後感をもたらしてくれる。
続きを読む "子規の埋葬談義(死後をめぐって)" »
日本における火葬は、文武天王4年(西暦700年)3月に僧道昭を荼毘に付したのが始まりであると、続日本紀の記録にある。大宝2年12月(703年1月)には、持統天皇が歴代の天皇としてははじめて火葬にされ、天皇の孫だった文武天皇、同じく孫の元正とその母元明の両女帝もまた火葬に付された。これ以後、天皇が火葬されるのは、後鳥羽上皇や北朝の各天皇など、一部の例をのぞけば、なされなかったのであるから、8世紀初頭のこの時代は、火葬が一種の文化現象だったことが、察せられるのである。
続きを読む "日本における火葬の始まり(柿本人麻呂の挽歌)" »
先稿「子規の埋葬談義」の中で、埋葬の諸形態について触れ、別稿では、日本における火葬の始まりについて述べた。子規自身は土葬されたように、明治の半ば頃までは、日本人の埋葬は土葬が圧倒的に多く、火葬は一割程度だったとされる。それも京都などの既成の大都市や、真宗地帯に偏っており、殆どの人は土葬されていたのである。
続きを読む "日本の埋葬文化(埋葬の諸形態と歴史的変遷)" »
誰しも子どもの頃に、「うそをつくと閻魔様に舌を抜かれる」といって、親や兄弟から脅かされた経験があることだろう。人は死ぬと閻魔大王の裁きを受けて、極楽へ行けるか地獄へ落ちるか、振りわけられる。その際に、人の罪状のうちにも、うそというのはもっとも罪が重いもので、たんに地獄へ落ちるにとどまらず、舌まで抜かれてしまうというのである。
続きを読む "閻魔大王と死者の蘇生(中世人の仏教的死生観)" »
古代日本における婚姻と家族のあり方が、近年まで支配的であった嫁取り婚、つまり女が男の家に嫁ぐといったあり方とはかなり様相を異にしていたことは、文献その他を通じて広く理解されるようになってきた。
続きを読む "古代日本の婚姻と家族:母系社会と通い婚" »
人にとって生きる喜びはセックス、つまり男女の交わりに発する。人に限らずあらゆる生き物にとって、繁殖は己の存在を超えて種の保存につながるものだ。どんな生き物でも、それに自分の存在の殆どをかけて格闘している。植物もそうだ。動物もそうだ。これは2倍体として生まれたものの宿命のようなものなのだ。だから神の摂理は、生き物たちのために、生殖の営みに生きる喜びを与え給うたのだ。
続きを読む "日本人の性愛・婚姻・家族と男女のあり方" »
古事記の中に、山幸彦(火遠理命)が海底で海神の娘豊玉毘賣命と結ばれ、結婚式の執り行われる様子が描かれている。
続きを読む "古代人の結婚式:婿取り婚の儀式" »
かつて東欧の社会主義体制が崩壊して経済が一時的に混乱状態に陥ったとき、いち早く復活したものに売春があった。社会主義体制のもとでは基本的にありえなかったこの職業を、当時のジャーナリストたちは人類最古の職業が復活したといって、皮肉っぽく紹介していたものだ。
続きを読む "遊女の社会史:日本売春文化の始まり" »
縄文時代から弥生時代の古代日本人が、おもに何を食べていたかは、貝塚や集落遺跡の調査を通じて次第に明らかにされつつある。
続きを読む "古代日本の食物:縄文・弥生時代の主食と副食" »
平安時代の日本人は何を食べていたか。日本人は古来、食生活を軽んじて、これを詳細な記録に残すということをしなかったので、詳しいことはわからないが、幸い平安時代中期(10世紀前半)に編纂された辞書「和名類聚抄」が、当時の食物や調理に関する項目を設けているので、これを通じて平安時代の食生活の一端に触れることができる。
続きを読む "平安時代の食生活:和名類聚抄から読み取る" »
日本の中世は普通、院政期から織豊時代までをさし、非常に長い期間をカバーしているので、一律に論ずることはできない。しかも南北朝時代を境に、日本の文化のあり方がドラスティックに変化したとされるので、なおさら一つの時代区分として論ずることは危険である。
続きを読む "中世日本の食生活:日葡辞書と宣教師報告" »