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日本文学覚書



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2008年10月18日

成島柳北と朝野新聞:近代ジャーナリズムの草分け

成島柳北は明治6年に米欧の旅行から帰国すると、一時京都東本願寺の翻訳局の局長を勤めるが、仕事は面白くなかったようで、もっぱら遊興の毎日を過ごした。その遊びの中から「京猫一斑」(鴨東新誌)が生まれている。そして翌明治7年9月に「朝野新聞」の局長に迎えられ、新聞人としての生活を始める。

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2008年10月25日

成島柳北の投獄記:ごく内ばなし

成島柳北は筆禍がもとで讒謗律違反に問われ、明治9年の2月から6月までの四ヶ月間鍛冶橋監獄に収監された。この監獄は前年の12月にできたばかりで、西洋風の作りであった。そこでの四ヶ月間の監獄生活を、柳北は出獄間もない6月14日から24日にかけて、朝野新聞紙上で紹介した。「ごく内ばなし」がそれである。ごく内緒の話という意味だろうか。植木枝盛の「出獄追記」と並んで、明治初年の監獄の様子が伺われる貴重な証言である。

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2008年11月 1日

辟易賦:成島柳北讒謗律を風刺す

成島柳北の奇文「辟易賦」は明治8年8月17日の朝野新聞に掲載された。この年の6月に讒謗律と新聞紙条例が施行され、政府はさっそくそれを適用して、末広鉄腸らの新聞人を弾圧し始めたので、成島柳北はこの文を作って、政府を痛烈に批判したのである。

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2008年11月 8日

柳橋新誌:成島柳北の時代批判

今日成島柳北の文業を正しく評価するものはほとんどいない。その著作のうち書肆に出回っているのは「柳橋新誌」くらいである。これは岩波文庫に収められているほか、いくつかの全集ものにも入っているから、比較的手に入りやすいが、それ以外には、昭和44年に刊行された明治文学全集所収のものが最後で、図書館に行かなければ目にすることができない。

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2008年11月15日

永井荷風の柳北論

永井荷風の小文に「柳北仙史の柳橋新誌につきて」と題する一篇がある。成島柳北「柳橋新誌」成立前後の事情を紹介した文章である。特に初篇に焦点を当てて、それが柳北自身の遊興体験からもたらされたものであることを解明している。

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2008年11月22日

正岡子規:生涯と作品

正岡子規は日本の近代文学において、俳句と和歌を刷新した人物である。これらの伝統文学は徳川時代末期にはマンネリズムに陥り、清新な気を失っていたのであるが、子規はそれを甦らせるとともに、新しい時代の文学形式としての可能性をも拡大した。彼の業績は弟子たちを通じて、今日の短詩型文学を根底において規定し続けている。

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正岡子規の少年時代:子規と松山

正岡子規は慶応三年に伊予松山に生まれた。父親の正岡常尚は松山藩の下級武士で御馬廻りをつとめていたが、明治5年子規が満四歳のときに死んだ。子規はこの父親については殆ど記憶らしいものを持っていなかった。後に「筆まかせ」の中で回想している文章を読むと、大酒が災いして命を縮めたと評している通り、余り愛着を抱いていなかったようである。

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2008年11月29日

正岡子規の修行時代

正岡子規は明治16年の5月に松山中学を退学し、翌6月に東京に向かった。時に15歳の少年に、何がこんなことをさせたのか。

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2008年12月 6日

子規と俳句

正岡子規は生涯に数万の俳句を詠んだ。彼はその中から保存するに耐えると思うものを選び出し、分類した上で手帳に清書して書き溜めた。その数は2万句近くに上る。手帳の1冊目から5冊目までは「寒山落木」と題し、6冊目と7冊目には「俳句稿」と題した。今日子規全集に納められているのは、これらの句が中心になっている。岩波文庫から出ている高浜虚子編「子規句集」もそれから抜粋したものである。

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2008年12月13日

俳人蕪村:子規の蕪村評価

「俳人蕪村」は子規が蕪村の俳句を取り上げ、その句風を詳細に分析したものである。蕪村の俳句史における位置づけは、子規のこの著作によってゆるぎないものになったといえるほど、蕪村研究の上で画期的な業績であった。

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2008年12月20日

柿食へば鐘がなるなり法隆寺:子規の写生句

正岡子規は生涯に夥しい数の俳句を作った。だがその割に名句と呼ばれるようなものは少ない。筆者が全集で読んだ限りでも、はっとさせられるようなものはそう多くはなかった。むしろ退屈な句が延々と並んでいるといった印象を受けたものである。

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2008年12月27日

子規の病

正岡子規が明治22年5月、まだ21歳という若さで大喀血に見舞われ、それを契機にして病気と闘う運命に陥ったことについては、前稿で述べた。またこの病気つまり肺結核が、己自身に子規と名付けさせるきっかけになったことも、前稿で述べたとおりである。

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2009年1月 3日

子規と漱石

漱石は子規の死後数年たった明治四十一年に、雑誌ホトトギスの求めに応じて子規の思い出を口述筆記させた。その中に次のようなくだりがある。

「なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところに遣って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親類のうちへも行かず、此処に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに、当人一人で極めて居る。」(漱石談話 正岡子規)

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2009年1月10日

子規と鴎外:日清戦争への従軍

近代国家日本の最初の対外戦争である日清戦争が始まると、元来が武家意識の塊であり、しかも新聞記者でもある子規は、自分も従軍したくてたまらなかった。しかし結核をわずらい、体力には自身がなかったため、周囲の反対もあってなかなか実現しなかった。

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2009年1月17日

子規と和歌:歌よみに与ふる書

子規は若い頃から和歌にも親しんでいた。「筆まかせ」のなかの一節で、「余が和歌を始めしは明治十八年井出真棹先生の許を尋ねし時より始まり」と書いているが、実際に作り始めたのは明治15年の頃であり、歌集「竹の里歌」もその年の歌を冒頭に置いている。

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2009年1月24日

和歌の連作:「足たたば」と「われは」(正岡子規)

「歌よみに与ふる書」を発表した子規は、その後も批判に答える形で、「ひとびとに答ふ」などを執筆しながら、自らも和歌作りの実践をしていく。それらは漢語の多用が目立ったり、俳句趣味を和歌に持ち込んだと思われるものがあったり、人の意表をつくような内容のものも多かったが、子規は次第に和歌のなかに自分の世界を作り上げていく。

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2009年1月31日

子規自筆の墓碑銘

子規は明治31年7月に碧梧桐の兄河東可全にあてて書いた手紙に添えて、自分の墓碑銘を送った。

  正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名は升
  又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人
  又ノ名ハ竹の里人伊予松山ニ生レ東
  京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
  馬廻り加番タリ卒ス母大原氏ニ養
  ハル日本新聞社員タリ明治三十□年
  □月□日没ス享年三十□月給四十円

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2009年2月 7日

墨汁一滴:いのちの絶唱

子規は死の前年、明治34年の1月16日から7月2日まで「日本」紙上に「墨汁一滴」を連載した。子規の壮絶な晩年を飾る珠玉の随筆群である。

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2009年2月21日

仰臥漫録:正岡子規最晩年の日記

子規は明治34年の7月2日を以て「墨汁一滴」の連載を終了した後、同年の9月2日から「仰臥漫録」を書き始めた。だがこちらは発表することを意図したものではなく、あくまでも子規の私的な手記であった。それだけにいよいよ死を間近に控えた人間の内面が飾ることなく現れている。

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2009年2月28日

病床六尺:正岡子規の絶筆

明治35年は子規が死んだ年である。その前年「墨汁一滴」の連載をなし終えた子規は、自分の死がいよいよ押し迫ってきたことを痛感し、その気持ちを私的な日記「仰臥漫録」の中でも吐露していたが、幸いにして年を越して生きながらえ、毎年恒例のように訪れてくる厄月の5月も何とか乗り切れそうな気がしていた。そんな子規に新たな連載の機会が与えられた。日本新聞社友小島一雄の計らいだった。

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