« 笠金村:遣唐使に贈る歌(万葉集を読む) | メイン | 秋瑾女史愛国の詩:寶刀歌 »


秋風秋雨人を愁殺す:秋瑾女史秋風曲


武田泰淳の小説「秋風秋雨人を愁殺す」は、その副題に「秋瑾女史伝」とあるように、清末の女性革命家秋瑾女史について、ドキュメンタリー風に描いた作品である。秋瑾女史を始め清末の革命運動家について殆ど知るところのなかった日本人は、この作品を通じて些かのことを知るに至った。

武田泰淳は、魯迅の研究で知られる竹内好の友人でもあり、中国文学に造詣が深かった。先の大戦では華中戦線に送られ、除隊後も中国にとどまって、上海を中心に暮らしていた。その間に、中国の古典を研究する傍ら、革命家たちの情報をも仕入れたらしい。

秋瑾女史は、1907年7月浙江省紹興において、清朝打倒の武装蜂起を企てた嫌疑により、官憲の手で斬首処刑された。辛亥革命に先立つことわずか4年前のことである。革命後、秋瑾女史の命を賭した活動は英雄的行為として称えられ、中国人民の熱い尊敬を集めた。「秋風秋雨人を愁殺す」とは、その秋瑾女史が処刑に臨んでの辞世の辞と伝えられている。

秋瑾女史が実際にこの詩を詠んだかどうかについては、疑問もあるらしい。勇ましく死に臨んだ女傑の辞世の句にしては、弱々しいという者もある。武田泰淳は、大戦の終結直後に、秋瑾女史の死を題材にした夏衍の劇を上海で見たが、その劇の中では、この詩のことは一切出てこなかったといっている。

だが、この言葉は今では、秋瑾女史を語る際には欠かせないものとなった。

「秋風秋雨愁殺人」は、現代中国語の北京音では「チウフェン チウユー チョウサアレン」と発する。武田泰淳は、これを当時の上海音にしたがって「チウフォン、チウユイ、チョウシャアレン」と書いている。いづれの音にせよ、おのずから秋瑾女史のイメージを喚起するのだという。

秋瑾、本名は閨瑾、字は璿卿、幼名を玉姑といった。原籍は浙江省紹興であるが、福建省の廈門において、光緒元年(1875)11月に生まれた。幼い頃より聡明で、11歳にして詩を作ったという。16歳の頃紹興に移り、学業の傍ら剣術などの武術を学んだ。

22歳にして王家に嫁ぎ二子を設けたが、婚家とは考え方が合わず、また祖国の窮状を憂えて日々悶々、酒に耽り悲歌撃節しては剣を払って舞ったという。

女の自立を求めて纏足に反対し、男装して町を闊歩した。やがて夫と離婚、1904年の秋に日本に留学した。この時、本名の中から閨の一時を取り去って秋瑾と名乗った。閨とは、女に課せられた封建的束縛として映ったからである。

東京にいた中国人留学生と交わるうち、秋瑾は次第に革命思想を抱くようになる。翌年には、中国の革命組織に入会している。清朝を打倒して漢人の国家を樹立しようとする組織である。

1905年の暮、留学生取締り規則に反対した彼女は、留学生たちの集会で全員総引き揚げを主張したが、耳を貸すものがほとんどいないのに苛立ち、賛同しないものを卑怯者と罵った。罵られたものの中には、あの魯迅もいたのである。

中国に戻ると、秋瑾は紹興を拠点にして革命運動に埋没し、武装蜂起の準備を始めた。自ら大通学堂というものの校長となり、そこで反乱兵の養成に当たるとともに、武器を調達した。

秋瑾は同士の徐錫麟と図って、武装蜂起の計画を練った。1907年の夏のある日、徐錫麟は安徽省で、秋瑾は浙江省で、それぞれ同時に蜂起しようというものであった。だがこの計画はスパイによって官憲側に筒抜けになり、彼らは非業の死をとげたのであった。

武田泰淳の小説は、失敗した蜂起と秋瑾らの死について記すところ詳しい。是非一読せんことを請う。

秋瑾は多くの詩を作った。ほとんどは、中国の窮状を悲憤慷慨し、清朝を打倒し洋人を追い払って、漢家の再興を図らんと歌ったものである。それらは皆愛国熱血の詩ばかりである。

ここでは、秋瑾の多くの詩の中から、秋風に事寄せて愛国の志を歌った作品「秋風曲」を取り上げてみたい。それはまた、彼女の辞世とされる「秋風秋雨愁殺人」とも通ずるところがあるからだ。(訓読は「碇豊長詩詞世界」を参照)

  秋風起兮百草黄  秋風起って百草黄ばむ
  秋風之性勁且剛  秋風之性 勁且つ剛
  能使羣花皆縮首  能く羣花をして皆首を縮め使め
  助他秋菊傲秋霜  他の秋菊を助けて秋霜に傲る
  秋菊枝枝本黄種  秋菊枝枝 本黄種
  重樓疊瓣風雲湧  重樓疊瓣 風雲湧く
  秋月如鏡照江明  秋月鏡の如く 江を照して明るく
  一派淸波敢搖動  一派の淸波 敢て搖動す
  昨夜風風雨雨秋  昨夜風風 雨雨の秋
  秋霜秋露盡含愁  秋霜秋露 盡く愁ひを含む
  靑靑有葉畏搖落  靑靑 葉の搖落を畏るる有り
  胡鳥悲鳴繞樹頭  胡鳥悲く鳴き 樹頭を繞る
  自是秋來最蕭瑟  自ら是秋來れば最も蕭瑟
  漢塞唐關秋思發  漢塞唐關 秋思發す
  塞外秋高馬正肥  塞外秋高く 馬正に肥ゆ
  將軍怒索黄金甲  將軍怒りて索む 黄金の甲
  金甲披來戰胡狗  金甲披ひ來りて胡狗と戰へば
  胡奴百萬囘頭走  胡奴百萬 頭を囘らして走る
  將軍大笑呼漢兒  將軍大笑して漢兒を呼ぶ
  痛飮黄龍自由酒  痛飮せん 黄龍自由の酒を

秋風は古来秋思を發するものではあるが、ここでは羣花すなわち胡には厳しく、秋菊には恵みあるものとして描かれている。秋菊は黄種とあるとおり、漢をイメージしているのだろう。

秋風が吹き、秋月が江を照らすと淸波が搖動す。これは漢による反乱をイメージしたものか。「靑靑有葉畏搖落 胡鳥悲鳴繞樹頭」の部分は、漢が立ったことにおびえる清の不安を表したものだろう。塞外秋高くの部分は、匈奴と戦った漢の武将たちをイメージしている。しかして、「金甲披來戰胡狗 胡奴百萬囘頭走」と、漢の軍が清を蹴散らすさまが高らかに歌われる。

末尾にある「黄龍自由の酒」とは、開放された中国の民衆が、自由の酒を味わうという趣旨である。黄龍とは中国の最も中国らしいイメージである。

「昨夜風風雨雨秋 秋霜秋露盡含愁」の部分は、よく味わって読む必要がある。ここで秋風がもたらす愁いとは、感傷的な意味で用いられているわけではなく、秋風によって足元が寒くなった支配者たちの不安を言っているとも解されるのだ。

先にも述べたように、秋風は中国人にとっての追い風、つまり日本人にとっての神風のようなものとして描かれている。その風が吹いた今、支配者たちが人民によって倒される日は遠くない。詩はそう歌っているとも受け取れる。

そうだとすれば、「秋風秋雨愁殺人」という句に、どんな思いが込められているか、新しい解釈の余地もある。


関連リンク: 漢詩と中国文化






ブログランキングに参加しています。気に入っていただけたら、下のボタンにクリックをお願いします
banner2.gif


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.hix05.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/112

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)




ブログ作者: 壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2006

リンク




本日
昨日