漢詩と中国文化


蘇軾は陶淵明を深く愛し、その詩のすべてに和した。和するとは、原詩の韻をそのまま用いて新しい詩を作ることである。次韻ともいう。

蘇軾の七言律詩「江を汲んで茶を煎る」(壺齋散人注)

  活水還須活火煎  活水 還た須らく活火もて煎るべし
  自臨釣石取深清  自づから釣石に臨んで深清を取る
  大瓢貯月歸春甕  大瓢 月を貯へて春甕に歸し
  小勺分江入夜瓶  小勺 江を分かちて夜瓶に入る
  雪乳已翻煎處腳  雪乳 已に煎處の腳を翻へし
  松風忽作瀉時聲  松風 忽ち瀉時の聲を作す
  枯腸未易禁三碗  枯腸 未だ三碗を禁じ易からず
  坐聽荒城長短更  坐して聽く 荒城の長短更

蘇軾の五言絶句「縦筆」(壺齋散人注)

  寂寂東坡一病翁  寂寂たり東坡一病翁
  白須粛散満霜風  白須 粛散 霜風に満つ
  小児誤喜朱顔在  小児 誤って喜ぶ朱顔在ると
  一笑那知是酒紅  一笑す 那んぞ知らん 是れ酒紅なるを

紹聖四年(1079)、家の普請が完成した頃、蘇軾は海南島に流されることになった。恵州での蘇軾の暮らしぶりが、流人の境遇に相応しくないという噂が立って、宰相の章敦がもっとひどい目にあわせてやろうと思ったためだ。

蘇軾が恵州まで連れてきたのは、末子の過と愛妾の朝雲だけだった。朝雲は、杭州の出身で、その地に蘇軾が二度目の赴任をした時に妾とし、長男を設けたのだったが、その子は幼くして死んだ。その後も朝雲は蘇軾に連れ添い、嶺南の流謫地まで一緒にやってきたのだった。その時蘇軾は57歳、朝雲は31歳だった。

蘇軾の五言絶句「茘枝を食す」(壺齋散人注)

  羅浮山下四時春  羅浮山下 四時の春
  盧橘楊梅次第新  盧橘 楊梅 次第に新たなり
  日啖荔枝三百顆  日に荔枝を啖ふこと三百顆
  不辭長作嶺南人  辭せず長へに嶺南の人と作(な)るを

蘇軾の五言古詩「陶の園田の居に歸るに和す六首 其四」(壺齋散人注)

  老人八十餘  老人 八十餘
  不識城市娛  城市の娛しみを識らず
  造物偶遺漏  造物 偶たま遺漏す
  同儕盡丘墟  同儕 盡く丘墟
  平生不渡江  平生 江を渡らず
  水北有幽居  水北 幽居有り
  手插荔枝子  手づから荔枝の子を插み
  合抱三百株  合抱 三百株

蘇軾は陶淵明の詩をこよなく愛し、多くの陶詩に次韻している。広陵時代には飲酒20首に和したことがあるが、紹聖2年恵州にあっては、「園田の居に歸る六首」に和した。陶淵明のこの連作は実は5首しかないはずで、6首目は梁の江奄の詩に和したものである。

紹聖元年、蘇軾は恵州に到着すると嘉祐寺に寄寓した。そこには近隣から多くの人々が訪ねてきたが、恵州知事詹範もその一人だった。詹守とは、知事詹範という意である。

紹聖元年(1094)10月2日、蘇軾は流謫地である惠州についた。前任地の定州を出発したのが4月のことだから、2000キロ以上の道のりを、半年近くかかってたどりついた訳である。旅の途中で蘇軾は、弟の蘇鉄を徐州に訪ね、また家族の大部分を江南の町宜興にあずけてきた。

招聖元年(1094)6月、蘇軾は南京に到着したところで、自分に関する新たな情報に接した。英州知事の辞令は撤回され、恵州に流罪という情報である。恵州は英州を超えた先にある。

紹聖元年(1094)四月、章敦が宰相の地位に着くと、旧法党への大弾圧が始まった。蘇軾はまず四月早々に、中央での官職をすべて剥奪されて英州(広東省英徳県)の知事に任命されたが、引き続き六月には恵州(広東省恵州市)へ流謫されることになった。政府の高官を務めた人間が、大庾嶺を超えて広東の彼方に流謫されるのは、蘇軾が初めてであった。

元祐八年(1093)、蘇軾は大事な女性を二人、相次いで失った。妻が8月1日に、そして太皇太后が9月3日に死んだのだ。妻の死に際して、蘇軾は祭文を作成して、妻がいかに心の広い、寛大な女性であったかを回想した。

元祐七年(1092)二月、蘇軾は頴州から揚州の知事へ転任した。赴任の道中、彼は下の息子二人を伴って安徽省の所々を視察旅行した。すると、麦畑が青々と広がっているのに、人々の姿が見えないことを不審に思った。聞けば農民は借金の取り立てを恐れて夜逃げしたのだという。

元祐六年(1091)都に召された蘇軾は政敵からの攻撃が煩わしくなり、地方転出を強く願い出た結果、その年のうちに頴州の知事となって転出することができた。

蘇軾の五言絶句「西塞風雨」(壺齋散人注)

  斜風細雨到來時  斜風細雨到來する時
  我本無家何處歸  我本家無し 何れの處へか歸らん
  仰看雲天真箬笠  仰いで雲天を看れば真に箬笠
  旋收江海入蓑衣  旋ち江海を收めて蓑衣に入れん

予去杭十六年而複來留二年而去平生自覺出處老少粗似樂天雖才名相遠而安分寡求亦庶幾焉三月六日來別南北山諸道人而下天竺惠淨師

蘇軾の詞「臨江仙‧錢穆父を送る」(壺齋散人注)

  一別都門三改火  一たび都門に別れしより三たび火を改め
  天涯踏盡紅塵   天涯 紅塵を踏み盡す
  依然一笑作春溫  依然として一笑し春溫を作す
  無波真古井    波無きは真に古井
  有節是秋筠    節有るは是れ秋筠

蘇軾の詩「劉景文の家に樂天身心問答三首を藏す、戲れに一絶を其後に書す」(壺齋散人注)

  淵明形神自我  淵明は形神自ら我とし
  樂天身心相物  樂天は身心相物とす
  而今月下三人  而今 月下の三人
  他日當成幾佛  他日 當に幾佛と成るべき

蘇軾の五言絶句「再び楊公濟の梅花に和す十絶 其八」(壺齋散人注)

  湖面初驚片片飛  湖面初めて驚く片片と飛ぶを
  樽前吹折最繁枝  樽前に吹折す最も繁き枝を
  何人會得春風意  何人か會し得たる春風の意を
  怕見梅黃雨細時  怕れ見る梅は黃に雨は細やかなる時を

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