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中世ヨーロッパの人々にとっては、肉体の悦楽を肯定することは異教的な堕落であり、ましてそれを賛美することは、神への許しがたい冒涜行為だとする観念が支配的だった。しかし肉体の賛美がまったく存在の余地を持たなかったかといえば、そうでもない。中世の民衆は、たとえば「薔薇物語」のような形で、肉欲を賛美する物語を楽しんでいたし、「デカメロン」や「カンタベリー物語」といった文学作品にも、肉欲を賛美する場面は多く描かれていたものだ。

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「悦楽の園」はボスの最高傑作との評価が高い。トリプティクス(三連祭壇画)の形式を用いたこの作品は、他のトリプティクスが教会の祭壇を飾るに相応しい宗教的なテーマを描き出しているのに対して、宗教性は前面には出てこない。というより、人間の背徳性を前面に出しているといってもよい。そんなことからこの祭壇画は、教会の祭壇を飾るために描かれたのではなく、富裕な商人たちの現世的な道楽のために描かれたのであろうと推測されてきた。

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この絵においても、地獄は劫火と洪水とでイメージされている。日本の地獄には洪水は殆ど出てこないが、ヨーロッパの絵画ではつきもののようである。

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中世の画家たちは、地獄の光景を描くことは多かったと思われるが、罪あるものが地獄へ落ちていく降下の有様を描いたのは、ボスが初めてだったのではないか。ボス以前にも、堕天使(反逆天使)の降下はイメージとしてあった。だが罪人の魂が地獄へ向かって降下していくのは、これが初めてだと思う。

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この絵は、正しき魂たちが地上の天国から天上の天国へと昇天していく場面である。ボウツは地上の天国の空の一角にぽっかりと空いた穴に向かって魂たちが吸い込まれていく様を描いたが、ボスの場合には、ここにあるように、トンネルのような暗い空間を通して、トンネルの先に開いた光に満ちた空間を目指して、魂たちが移動している。

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ボスは最後の晩餐の関連作品として「死後の世界」を描いた四枚一組の作品を作った。死後の世界とは、死んでからキリストによる最後の審判を待つまでの間、暫定的に身を寄せる場所のことで、地上の天国と暫定的な地獄とならなる。もちろんこれは、聖書に書かれているものではなく、民衆の間の迷信に過ぎなかったが、中世末期の人たちは本気でそれを信じていたのである。

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「最後の審判」の右翼画はまさに地獄と題されているが、ここでも地獄そのものというより、地獄の門の周辺が描かれているようにも見える。画面下部のほうに描かれているアーチ状の門が地獄の入り口であり、その前に立っているのは大勢の手下を従えた魔王ルシフェルなのではないか。

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「最後の審判」には刃物の化け物が出てくる。これは中央パネルの右下の部分だが、爬虫類のグロテスクな胴体から巨大なナイフの頭が突き出ている。その上の方には、小屋の屋根からのこぎりが突き出ている。この小屋はどうやら、化け物たちの休憩所のようである。またナイフの右手には、駕籠から脚の生えた化け物が、三日月形の鎌を振りかざしている。

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「最期の審判」中央パネルで展開されている光景は、裁きの場としてのヨシャパテの谷であって、地獄そのものではないとしたら、ここで展開されている責め苦は何を表しているのだろうか。画面のいたるところに、グロテスクな化け物や怪物が跳梁し、裸の人間たちがそれらによって拷問の責め苦を受けている。これは煉獄の試練なのだろうか。

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最後の審判は、中世からルネサンスを生きていたヨーロッパの人々にとって、最大の関心事だった。なぜなら誰もがそれを免れることはできないからだ。誰もが、世界の週末に催される最後の審判の法廷に引き出され、そのものの信仰や行為の如何に応じて裁きを下される。神によって嘉された人々は天国に、神によって退けられた人々は地獄へ行く。それは誰もが逃れられないことなのだ。

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三連祭壇画の両翼を閉じると、そこには外翼画が現れる。干草車の場合は、行商人を描いたものだ。干草車本体とこの絵とがどんな関係にあるのか、正確にはわからないが、本体が人間の欲望を描いていることから、この絵も、欲望と邪悪に包まれた世界を描いたのだ、とする解釈も成り立ちうる。

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三連祭壇画「干草車」の右翼が地獄のイメージを表していることは間違いないが、それが地獄そのものなのか、それとも地獄の入り口なのか、については議論がある。というのも、ここに描かれている塔のような構築物が地獄の入り口なのではないかとの見方もあるからだ。人によっては、それを地獄が多層的な構成をとっているのだとみる者もいる。

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ボスの大作「干草車」には、怪物のイメージがたくさん登場する。一つは中央画面で干草車を引っ張っている怪物たち、もうひとつは地獄で跳梁している怪物たちである。

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ボスの大作はほとんど祭壇画として描かれた。それも三連祭壇画(トリプティック Triptychs)といって、三連式のものだ。これは、中央にキリストの生涯や聖書にある重大な事件を描き、両脇にはそれを補完するようなイメージを配置するのが普通なのだが、ボスの場合には独特の構成を編み出した。左翼に天国を、中央部にテーマとなるこの世での出来事を、右翼に地獄を描くのだ。だからボスの三連祭壇画は、普通のものとは違って、左から右へと視線を走らせるように強いられる。

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中世の人々にとって死は身近な出来事だった。個人的な不幸な死があり、疫病による集団的な死があり、また戦争や宗教的対立による無残な死があった。死はいたるところに充満していたのである。それ故、人々はわざわざ注意を向けなくとも、常に死の方から人々を訪ねてきたのだが、それでもなお、死を注目し、常に死について思いをめぐらさずにはいられなかった。中世末期のもっともよく知れ渡った格言とは「メメント・モリ(死を想え)」だったのである。

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七つの大罪はそれぞれ互いに響きあうものを持っているが、なかでも大食と邪淫は深いかかわりを持つと信じられていた。そのことは中世の諺「バッコスがいなければヴィーナスもかたなし」に示されている。ボスはそんな観念に基づいてこの絵を描いたのだと思われる。

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愚者の船は中世末期の民衆にとってなじみの深いテーマだったようだ。もともとは、十字架をあしらったマストの船が人々を天国に運んでくれるというイメージだったものが、後に生臭坊主や堕落した尼僧が船の客となって、天国ならぬ自堕落郷(阿呆国)へ運んでいくというイメージに変っていったものらしい。

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テーブルを境にして手品師と観客が相対している。手品師がやっているのは、コップと玉の手品だ。手品師は球を顔の前にかざし、観客に向かってこれからコップの中に入れると宣言しているのだろう。彼の腰にぶら下がった籠にはフクロウの顔がのぞいているが、それは邪悪の象徴だ。また手品師の足元には犬がかしこまっているが、こちらは阿呆帽をかぶっている。

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ボスは民衆の愚かしさを面白おかしく描いた。民衆の愚かさを見つめるボスの視線は、軽蔑のまなざしというより憐憫のまなざしであり、時には暖かささえ感じさせる。この絵「石の切除手術」も、民衆の愚かな偏見を面白おかしく描いたものだ。

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聖書に題材をとったいわゆる宗教画とともにボスが好んで取り上げたテーマは、諺や戒めなど民衆生活をいろどる様々な民俗模様だった。それらは中世の民衆の世界観のようなものを反映しており、日常生活から死後の世界に渡る広大な分野をカバーしている。ボスはそれらの一部を絵のかたちに現すことで、民衆の好奇心に応えようとしたのかもしれない。

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