読書の余韻


大江健三郎は「ドン・キホーテ」を壮大なパロディの体系としてとらえる。この小説そのものが、本来は騎士道物語のパロディとして構想されたのであるし、小説の内部にも、牧人小説のパロディをはじめとして、多様かつ多面的なパロディが盛り込まれている。それのみではなく、相次いで展開される様々な物語が、それに先行する物語のパロディにもなっていると言った具合に、小説全体がパロディの入れ子細工のような観を呈している。

アウエルバッハが主著「ミメーシス」を刊行した時、セルバンテスを論じた章はなかった。スペイン語版が出されるに及んで「魅せられたドゥルシネーア」と題するセルバンテス論を書き、それを第14章として挿入したのである。

高橋康也氏は「道化の文学」において、「ドン・キホーテ」を、エラスムス、ラブレー、シェイクスピアの系列に位置する道化の文学として位置付けている。ドン・キホーテは「ルネサンスが生み出した最後の道化」というわけである。その限りにおいて、「ドン・キホーテ」は近代文学の先駆けというよりは、中世・ルネサンスの民衆文化の延長上のものであるといわねばなるまい。バフチンがラブレーの作品について定義づけたのと同じような意味合いにおいて。

本田誠二氏は、今日では日本のセルバンテス研究の第一人者ということらしいが、彼の書いた「セルバンテスの芸術」という本は、正直言って読みづらかった。論旨展開がトリヴィアリズムに走っていて、なんだか枝葉末節の事柄を聞かせられているような感じをうけるし、文章の運びにもなんとなくリズムが感じられない。

牛島信明は、「ドン・キホーテ」を、反対のものをも包みこんだ多義的な曖昧さからなる文学世界だとしたうえで、その曖昧さを形成するものはセルバンテス独特のユーモアなのであり、そのユーモアを醸し出すのはアイロニーだとしている。彼の定義によれば、「ドン・キホーテ」とは「アイロニーの文学」ということになる。(「反・ドン・キホーテ論」第6章)

ナチスを逃れてアメリカに亡命したトーマス・マンが、大西洋上の船の中で「ドン・キホーテ」に読みふけったことは、文学史上の出来事として良く知られている。(「ドン・キホーテ」とともに海を渡る)

牛島信明は岩波文庫版「ドン・キホーテ」の最新版の翻訳者であり、セルバンテスの研究者としては、日本では一流の人だったと思う。惜しくも(2002年に)62歳で亡くなってしまったが、幸い翻訳のほかに、ドン・キホーテ論も残してくれた。ここに紹介する「反=ドン・キホーテ論」がその主な業績だ。

ホセ・オルテガ・イ・ガセーの「ドン・キホーテをめぐる思索」(佐々木孝訳)を読んだ。オルテガといえば「大衆の反逆」などで知られる思想家で、20世紀に大衆なるものが出現したことを初めて宣言した人だ。それ故どちらかというと、社会学者としての印象が強いが、本人は哲学者として自己認識していたようだ。

「ドン・キホーテは、あらゆる小説の中でもっともスペイン的なのである」と、メキシコの著名な作家カルロス・フェンテスはいう。しかしセルバンテスの小説は同時に「歴史がスペインに対して拒んだものになった」ともいう。「というのは、芸術は歴史が殺してしまったものに生命を与えるものだからである。芸術は、歴史が否定し、沈黙させたもの、あるいは迫害したものに声を与える。芸術は、歴史の虚偽の手から真実を救済する」(牛島信明訳、以下同じ)

ユニークなシェイクスピア研究で知られるT.M.W.ティリアードは、シェイクスピアが生きていたエリザベス朝時代が、プロテスタンティズムの二つの興隆の間にはさまった非宗教的な時代であるとする一般的な通念を排して、この時代を中世的な世界像との連続した層のもとにとらえるべきだと主張する。

デジデリウス・エラスムス Desiderius Erasmus が「痴愚神礼賛」を書いたのは16世紀初頭の1509年、トーマス・モアの客分としてロンドンに滞在していたときであった。痴愚神のラテン語名Moriaeは、モアのラテン語表記 Morus に通じ、エラスムスはこの著作をトーマス・モアに捧げた。

エラスムス Desiderius Erasmus (1467-1536) は、北欧ルネッサンスを代表するヒューマニスト(人文主義者)として、カトリック教会の堕落を告発し、ルターら宗教改革運動とも交流のあった人物として知られている。その著作「痴愚神礼賛」は、腐敗停滞した当時の社会を弾劾したものとして、ことのほかエラスムスの名を高めた作品である。

ゲーテは「イタリア紀行」の中で、1788年に目撃したローマの謝肉祭の様子を描いている。(以下テキストは、相良守峯訳、岩波文庫版)

バートランド・ラッセルのいうとおり、ルネッサンスは時代の思想を集約するような偉大な理論的哲学者は一人も生んでいないが、時代全体としては、人間の世界観を180度転換するような巨大なうねりに満ちた時代であり、トータルとしてみて、新しい思想の体系がはぐくまれた時代であった。

フランソア・ラブレーにおいて、セックスにかかわる事柄は、何よりも生殖の豊穣さと結びついていた。男女が性的に交わるということは、新しい生を生み出すための行為なのであり、世界を絶えず更新させていくための、大いなる営みとみなされていた。

フランソア・ラブレーの作品には、糞尿のイメージがいたるところにあふれている。ラブレーの作品を糞尿(スカトロジー)の文学とする見方も成り立ちうるほどである。

フランソア・ラブレーの大年代記「ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語」第一之書は次のような序詞で始まっている。

ラブレーの作品世界を特徴付けている最大のものは、祝祭性である。ガルガンチュアとパンタグリュエルのいくところ、至る所にカーニバルの祝祭的空間が広がり、道化や、洒落のめしや、遊戯や、権威のひっくり返しや、ありとあらゆる滑稽な見世物があり、しかもそれらは笑いで満ち満ちている。

ルネッサンスの時代は、ヨーロッパの歴史において、中世から近代への橋渡しをなす時代とされている。続いて起こる宗教改革と並んで、この時代に近代社会の秩序となるものが形成されてくるという歴史認識は、今日揺るぎのないものとなっている。したがって、ルネッサンスの時代は、主として近代との連続性においてとらえられてきたのであった。

ミハイル・バフチーン (Михаил Михайлович Бахти́н 1895-1975) の名は、日本の知的文化(そんなものがあるとすればだが)の中では、存在しないも同然だが、20世紀前半におけるヨーロッパの知的文化の中で、ひときわ大きな光芒を放ったユニークな思想家である。

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