日本文学覚書


群像の「日本の作家」特集の村上春樹編を、アマゾンの中古サイトから取り寄せて読んだ。いろんな作家の村上春樹評が載っている。文壇からはとかく無視されがちとの評判がある村上だが、この特集には、村上に対して理解のある人たちの文章が集められている。といっても、あまり印象に残るようなものはなかったが、ひとつ印象的なものがあった。丸谷才一氏が、村上の三度にわたる受賞に際して、選者の立場からコメントした、それぞれに短い文章だ。

内田樹氏は、「風の歌を聴け」が出たときからの村上ファンで、その後一貫して村上春樹を評価する論陣を張ってきた。川本三郎氏が、「風の音を聴け」と「1973年のピンボール」を絶賛しながら、「羊を巡る冒険」あたりからついていけなくなったらしいのに対して、内田氏はますます村上の評価を強めた。村上が日本の文壇社会の中でずっと無視されてきたことを考えれば、筋金入りの村上理解者だということができよう。

「僕は文章を書く方法というか、書き方みたいなものは誰にも教わらなかったし、とくに勉強もしていません。で、何から書き方を学んだかというと、音楽から学んだんです。それで、何が大事かっていうと、リズムですよね。文章にリズムがないと、そんなもの誰も読まないんです。前に前にと読み手を送っていく内在的な律動感というか・・・」

小澤征爾さんと村上春樹の対談集の中のグスタフ・マーラーについて語られた部分が刺激になって、さっそくマーラーの交響曲第一番のCDを買ってきて聞いた。それも彼等が特にこだわっていた演奏であるサイトウ・キネン・オーケストラの音だ。たしかに面白い。聞いてみての印象と彼らの発言をあらためて照らし合わせると、その面白さがいっそう楽しい面白さになる。筆者はいままでマーラーなど聞いたことがなかったのだが、今回聞いてみて、今まで聞かなかったことでたいへん損をしたような気持ちになったものだ。

村上春樹の「小澤征爾さんと音楽について話をする」を、非常に興味深く読んだ。とにかく面白いし、また勉強にもなる。村上春樹が音楽好きなことは良く知られているようだが、それにしてもよく知っている。音楽の専門家たる小澤さんが舌を巻くほどだ。それでもって、小沢さんから音楽についての様々なことを聞き出している。それらのなかには小澤さん自身が日頃意識してこなかったことで、村上から水を向けられて初めて言葉になったようなこともあるという。

1Q84は、村上春樹という物語作家がたどりついた、物語のひとつの到達点といってもよいだろう。物語が語るそもそもの中身、物語を語り進める仕掛け、そして物語を語るその語り口、色々な面でこれまでの村上の物語のあり方を集大成している。

「1Q84」の中に出てくる二つの謎の集団「さきがけ」と「あけぼの」。「さきがけ」は新興のカルト教団ということになっており、「あけぼの」はそこから分派した左翼冒険主義者たちという設定だ。一見して「さきがけ」はオウム真理教を彷彿させ、「あけぼの」が巻き起こす騒動は「あさま山荘事件」を思い起こさせる。しかしそこに、パラレルな相似性があるわけではない。オウム真理教事件も浅間山荘事件も、単なるヒントくらいの扱いをされているに過ぎない。

小説「1Q84」の中で村上は主人公の天吾に大麻を吸わせている。村上は登場人物に煙草を吸わせるシーンを小道具の一つとしてよく使ったが、大麻を含めて麻薬といわれるものをとりあげたのはこれが初めてだ。なぜそんなことをしたのか。大麻は言うまでもなく違法ドラッグであるし、それを吸うことの可否は道徳以前の問題だ。それなのにあえて世論に挑戦するような形で、主人公に大麻を吸わせる。

村上春樹という作家は小説の小道具として音楽をよく使う。デビュー作の「風の歌を聴け」以来、ほとんどすべての作品で、音楽が重層低音のような効果を作り出している。「ノルウェーの森」ではビートルズの同名の曲が作品のタイトルになったほどだし、「海辺のカフカ」ではナカタさんを四国まで連れてきてくれたダンプの運転手星野君が、ベートーベンのピアノコンチェルトに陶酔するといった具合だ。

村上春樹の創造した人物像の中にあって、タマルは牛河以上にユニークな人間だ。表向きは謎めいた老婦人の執事ということになっているが、実体としては夫人のボディガードであり、また夫人の大胆な野心の実現を支えるエクスパート=その道のプロでもある。青豆が夫人の野心を実行する実働者=殺し屋とすれば、タマルはその殺しを演出する参謀だ。

「1Q84」には、「ねじまき鳥クロニクル」の中で出てきた奇妙な探偵牛河が再登場する。しかもかなり重要な役回りでだ。彼は「さきがけ」というカルト集団のリーダーに見込まれて、様々な人間の身辺調査などをしていることになっているが、やがては、青豆と天吾にとって最も危険で脅威的な存在へと高まっていく。実際この作品のBOOK3では、青豆、天吾と並んで、牛河も主人公の一人に列しているのだ。

青豆も天吾も不幸な親子関係の中で育った。青豆は両親からカルト教団への信仰を強制され、それを嫌悪して両親と絶縁した。天吾の母親は彼が2歳の時に死に、父親の手によって育てられた。その父親はNHKの集金人をしており、幼い天吾を連れて、集金をしてまわった。まわる先々で、父親は子供を連れていることで相手の同情を買おうとした。また支払いを拒む連中には口汚くののしった。天吾はそんな父親に対して複雑な感情を抱いたが、やがて父親のもとから飛び出して、自立するようになった。

村上春樹「1Q84」の英訳本が出た時、英米の読者の間で最も関心を読んだのは「猫の町」の挿話だった。ニューヨーク・タイムズはそのファンタスティックな描写に敬意を表し、ニューヨーカーはその部分を掲載したほどだった。

青豆は女友達に恵まれなかった。少女時代にできたたったひとりの友達は、結婚後マゾヒストの夫の暴力に耐えられなくなって、首をくくって自殺した。30歳になって、もうひとりの心許せる女友達ができたが、彼女は渋谷のホテルで全裸のまま殺されてしまうのだ。両手に手錠をはめられたまま。恐らくはサドマゾゲームの調子が狂って。

青豆は30歳の成熟した女であるし、無論男とのセックス経験もある。だから処女ではない。その青豆が妊娠した。だが青豆には、その前後男とセックスした記憶がない、自分の子宮が精子を受け入れたという感覚もない。それなのになぜ妊娠できたのか。しかも青豆は自分の子宮の中に宿った小さな命は、思い人である天吾の子だと、直感する。根拠はない、それは啓示のようなものなのだ。

村上春樹の小説「1Q84」は、ふかえりという謎めいた少女が生み出した「空気さなぎ」という物語を、主人公である天吾が文学作品として読みやすく改作することから始まる。その作品の内容は、はじめのうちは読者に明示されないが、単なる架空の物語ではなく現実世界との接点を持っているらしいことが暗示される。やがて、1Q84という世界は、この空気さなぎに描かれた世界と異ならないのだということが開示される。つまり主人公たちはいつの間にか、空気さなぎで描かれた世界の中に迷い込んでしまったというわけなのである。

村上春樹の小説の題名「1Q84」からオーウェルの小説「1984年」を想起したのは筆者だけではなかっただろう。小説の中で作者自身がそのことをほのめかしているから、あながち的外れな受け取り方ではない。なにしろオーウェルの「1984年」というタイトルは、20世紀に生きた人類全員にとって共通の強迫観念といってもよかった。それが21世紀に生きている人類の一員である筆者などに、いまだ強烈なインパクトとなって残っている所以だ。

村上春樹にとって、走ることは書くこととパラレルの関係にあるものらしい。とくにマラソンは長編小説を書くこととよく似ているという。マラソンも長編小説も、彼にとっては特別な意味での肉体労働なのだ。「長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。文章を書くこと自体はたぶん頭脳労働だ。しかし一冊のまとまった本を書き上げることは、むしろ肉体労働に近い」

「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という変わった題名のインタヴュー集は、色々な角度から村上春樹と云う作家の創作姿勢を垣間見せてくれる。個々の作品を深く理解するうえで参考になることもある。

村上春樹の小説「国境の南 太陽の西」は完璧な恋愛小説、それも男女間の切ない恋を描いた究極の恋愛小説だ。村上春樹にしては、男女の恋愛感情を正面から取り上げたこの作品は、「ノルウェーの森」以上にリアリスティックであり、したがって素直でわかりやすい。読者はこの作品を読むことを通じて自分自身の恋愛体験をもう一度追体験できるだろう。

1  2  3  4  5  6  7  8  9




アーカイブ

Powered by Movable Type 4.24-ja

本日
昨日

最近のコメント

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち44)日本文学覚書カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは42)古典を読むです。

次のカテゴリは46)日本史覚書です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。