日本文学覚書


「春と修羅」の中の一篇「真空溶媒」は、いろいろな意味で宮沢賢治らしさが強く現れている作品だ。まず副題に、ドイツ語で「朝の幻想」とあるとおり、これは賢治の性癖であった幻想がテーマになっている。

宮沢賢治は自分の詩集を編むに当たって、配列を創作順にするのを原則とした。最初の詩集「春と修羅」の最初に収められた詩はだから、賢治の創作活動の出発点をなす記念すべき作品だということができる。その作品とは1922.1.6の日付を付せられた「屈折率」という詩である。

宮沢賢治の詩が新鮮で美しく感ぜられるのは、彼の詩には光が溢れ、清浄な青空の下にそよぐ風が感じられ、生き物が生きることの喜びを謳歌しているからだ。賢治の心象を透過して現れたそれらのスケッチは、春の息吹に満ち溢れている。賢治は春を歌う詩人であり、光を歌う詩人であり、風を歌う詩人なのだ。

宮沢賢治が「春と修羅」と題する一群の詩を書いたのは大正11年から12年にかけての22個月間である。賢治はそれに序を付して、大正13年の4月に自費出版した。だが出版直後はもとより、賢治が生きていた間、この詩集は草野心平ら一部の人たちに評価されたのを例外として、殆ど注目されることはなかった。

横井也有の俳文集「鶉衣」に収められた諸篇を、今日の読者が読んだとしたら、どんな感慨を抱くだろうか。也有翁には気の毒だが、筆者には甚だ心もとなく思われる。

大田南畝が横井也有の俳文集「鶉衣」を刊行したのは、田沼時代が終わって松平定信が登場した頃、自らは狂歌の世界と手を切って謹厳実直な小役人の生活に閉じこもることを決意した頃であった。だからそれは南畝最後の遊び心のなせる業だったといってよい。前編三巻を天明七年に、後編三巻を翌年に、それぞれ蔦谷重三郎を通じて刊行した。

大田南畝と上田秋成の出会いは、文学史上の奇事といえる。二人が出会ったのは、南畝が50台半ば、秋成が60台の末近くで、しかも南畝が旅先の短い時間の合間に、数回面談した程度の付き合いに過ぎなかった。それにもかかわらず、南畝はこの老人に深い興味を覚え、秋成のほうも心をゆるして語り合える親密さを感じた。この二人の経歴や性癖から考えると、非常に奇妙な友情なのだ。

大田南畝は蜀山人という名でも知られている。むしろその方が通りがよい。蜀山人という名には一種伝説的な響きがあり、昭和の始め頃までは、一休さんと並んで頓知の名人というイメージが流布していたほどだ。パロディがうまく、なんでも笑い飛ばしながら、どこかに反骨精神がある、そうした評判が蜀山人を伝説上の人物に仕立て上げたのだろう。

天明六年(1786)に田沼意次が失脚すると、田沼の同類として賄賂政治を行っていたとみなされた連中も失脚した。その中には勘定奉行松本伊豆守やその配下の土山宗次郎なども含まれていた。この動きは松平定信が老中に就任する天明七年六月以降加速し、田沼派は全面的に粛清される。

大田南畝が狂歌を始めたのは、狂詩の延長としてであったろう。狂詩は漢詩を下敷きにしているので、漢詩の教養がないとわからない。ところが狂歌はやさしい日本語で書くものだから、誰にでもわかりやすい。また自分でも作ることができる。こんなことから、南畝の始めた狂歌が次第に評判を呼び、ついには一大文化現象とでもいうべきものに発展していった。

大田南畝が処女作寝惚先生文集を世に問うた明和四年に、田沼意次は将軍家治の側用人になった。その後田沼は、明和六年に老中格、安永元年に老中に出世し、政治の実権を握るにいたる。田沼時代の始まりである。

大田南畝の処女出版「寝惚先生文集」に平賀源内が序文を寄せた。源内はエレキテルの発明や博物学などによって歴史上ユニークな存在であるが、同時代人にとってはむしろ破天荒な戯文作者として有名であった。その高名な戯文作者平賀源内の序文を付したわけだから、南畝の処女出版は、人の評判を呼ぶのに何かと好都合な条件を獲得したわけである。その序文にいう、

明和四年(1767)、大田南畝は若干18歳にして処女作を世に問うた。題して寝惚先生文集、狂詩狂文の類を集めたもので、わずか38篇を収めた小冊子に過ぎなかったが、たちまち世間の評判を呼び、南畝は一夜にして江戸文芸の花形になった。

六年余りの病床生活を経て子規の病態はいよいよ抜き差しならなくなってきた。耐え難い苦痛が彼を苦しめたのである。それにともなって、「病床六尺」の記事も短くなり、また苦痛を吐くものが目立ってきた。死の直前明治35年9月12日から14日にかけての「病床六尺」には、そんな痛みが述べられている。

明治35年は子規が死んだ年である。その前年「墨汁一滴」の連載をなし終えた子規は、自分の死がいよいよ押し迫ってきたことを痛感し、その気持ちを私的な日記「仰臥漫録」の中でも吐露していたが、幸いにして年を越して生きながらえ、毎年恒例のように訪れてくる厄月の5月も何とか乗り切れそうな気がしていた。そんな子規に新たな連載の機会が与えられた。日本新聞社友小島一雄の計らいだった。

子規は明治34年の7月2日を以て「墨汁一滴」の連載を終了した後、同年の9月2日から「仰臥漫録」を書き始めた。だがこちらは発表することを意図したものではなく、あくまでも子規の私的な手記であった。それだけにいよいよ死を間近に控えた人間の内面が飾ることなく現れている。

子規は死の前年、明治34年の1月16日から7月2日まで「日本」紙上に「墨汁一滴」を連載した。子規の壮絶な晩年を飾る珠玉の随筆群である。

子規は明治31年7月に碧梧桐の兄河東可全にあてて書いた手紙に添えて、自分の墓碑銘を送った。

  正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名は升
  又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人
  又ノ名ハ竹の里人伊予松山ニ生レ東
  京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
  馬廻り加番タリ卒ス母大原氏ニ養
  ハル日本新聞社員タリ明治三十□年
  □月□日没ス享年三十□月給四十円

「歌よみに与ふる書」を発表した子規は、その後も批判に答える形で、「ひとびとに答ふ」などを執筆しながら、自らも和歌作りの実践をしていく。それらは漢語の多用が目立ったり、俳句趣味を和歌に持ち込んだと思われるものがあったり、人の意表をつくような内容のものも多かったが、子規は次第に和歌のなかに自分の世界を作り上げていく。

子規は若い頃から和歌にも親しんでいた。「筆まかせ」のなかの一節で、「余が和歌を始めしは明治十八年井出真棹先生の許を尋ねし時より始まり」と書いているが、実際に作り始めたのは明治15年の頃であり、歌集「竹の里歌」もその年の歌を冒頭に置いている。

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