日本の伝統的木造建築は、ヨーロッパの建築のように、階層を高く積み上げることには向いていなかった、寺社建築にしろ、その他の建築物にしろ、木造建築は平屋であることが普通だった。そこをあえて重層の建物にするには、塔が高くなくてはならぬといった、建築外的な要素が働く場合に限られていた。
日本文化考
日本の伝統的な木造家屋の特徴は、深い庇をもつことだ。これは平安時代の寝殿造り以来の伝統といってよい。寝殿造りにあっては、母屋を支える軸組の延長に柱を並べ、その下に生じた空間を庇の間として、母屋と一体のものとして使っていた。それがごく最近まで連綿と続いていたわけだ。
今日の多くの家においても、襖と障子は広く用いられている。襖は主に部屋と廊下の間、あるいは二つの部屋の間仕切りといった具合に、家の内部に向いているのが普通である。それに対して障子のほうは、縁側との間あるいは窓とセットにしてという具合に、家の外部に向かってとりつけられている。もともと明り取りのために開発されたという経緯があるからだ。
平安時代の寝殿造りの建物は、母屋と庇からなるがらんとした空間が広がるだけで、今日の建物のように内部が仕切られてはいなかった。(塗籠と称される、壁で仕切られた閉鎖的な空間があるにはあった。)そのかわり、御簾、屏風、几帳、衝立といった家具調度品を用いて、そのときそのときの目的に応じて、広い空間を仕切り一時的な部屋として使う、室礼というものが行われていた。
日本の伝統的木造建築の基本的な構造は、柱と梁桁からなる軸組の上に小屋組と呼ばれる屋根を乗せることだ。そしてこの屋根が非常に大きいことが特徴だ。建物の美しさや荘厳さは、屋根の大きさに比例して強まるとさえ考えられてきた。

寺院の本堂の建物をよく見ると、柱の上部に、にぎやかな飾りのようなものが見える。寺院建築には必ずあるものだから、注意すれば見落とすことはない。これは組物と言って、本来は、柱とその上の桁や梁とを接合する役目を果たしているものだ。こうすることで、柱の頭部に直接桁や梁を乗せるより、建物の構造が強固になるのがひとつ、もうひとつは柱と桁の間に空間を介入させることで、庇を深くするという、視覚上の効果を持つ。

どこの国の建築物もそうかもしれぬが、特に日本の木造建築にあっては、屋根の形がその建物の印象を決定的に左右する。古びた木肌からなる基体の上に、瓦葺にせよ、茅葺にせよ、または銅葺にせよ、巨大な屋根が覆いかぶさるように乗っている姿は、その建物にオーラのような輝きをもたらす。日本の建物の美しさは、屋根の美しさといっても過言ではない。
建築物を分類する方法としては、材料に着目したもの(木造、石造など)、機能に着目したもの(住居、公共建築など)、形状に着目したもの(平屋、塔など)等いろいろありうるが、構造上の特徴という面に着目して、壁の文化と柱の文化との対立軸も面白い着眼点になると思う。

高床式の建物は弥生時代以降に現れたとするのが今日の通説である。登呂遺跡ではクラと称されるのがそれで、当初は穀物を収蔵するための施設として作られたらしい。それが次第に住居としても用いられるようになっていったのだろう。

古代の日本人はどのような住居に住んでいたか。それを最初に視覚的に復元したのは登呂遺跡の竪穴式住居だった。直径数メートルの円形の竪穴の内側に四本の柱を立て、それを梁と桁にあたる水平材で固定し、その上に屋根を支えるための垂木を架け、茅葺の屋根が載せられた。歴史の教科書にも採用されているから、大方のひとはそのイメージをもっていることだろう。
野菜を漬けて食う風習は世界共通のことだ。なまで食うことをのぞいたら、野菜の食い方としてもっとも古い歴史を有する。人類最古の食品の調理法だともいえる。日本でも例外ではなく、すでに縄文時代から野菜の漬物が食われていた。
日本酒を蒸留すると焼酎が出来る。焼酎の製造技術は室町時代の末期には確立していたと思われるが、何故か日本の酒の文化の中では普及することがなかった。一昔前まで焼酎といえば安酒のイメージが付きまとっていたものだ。それが昭和50年代の後半から俄かに日本中で飲まれるようになった。「いいちこ」とか「二階堂」といった麦焼酎の銘柄が人気を集めたのがきっかけだったようだ。
日本酒は、米、麹、酵母、水を原料にして作る。米に含まれる澱粉を土台にして、麹が澱粉を糖に変え、酵母が糖を分解してアルコールに変える。これは日本酒に限らず醸造酒といわれる酒の造り方の基本である。原料が変わっても、工程そのものはほとんど変わりがない。日本人が日本酒を愛してきたのは、米が日本人にとっての主要な澱粉源であったからだ。
現在我々日本人が普通に食っている握り寿司は、文政年間(1820年代)に江戸の寿司職人華屋与兵衛が発明したということになっている。与兵衛は酢飯の上に魚を乗せ、それを掌で握り締めて客に出した。魚は江戸前でとれたもので、アナゴ、鯖、こはだ、車海老といったものが中心だったらしい。江戸前寿司とは、そうした材料から出た言葉だが、握り寿司が江戸で始まったという事情も含んでいるのだろう。
そばといえば普通蕎麦屋で食うものだ。もちろんスーパーでそば玉を買ってきて、自分で茹でて食うこともできるが、何となく味気がない。そばはやはり蕎麦屋で食うからうまいと感じるのは、筆者だけではあるまい。
今日我々日本人の平均的な食卓のイメージとしては、ダイニングルームの一角に家族の規模に応じた洋風のテーブルが据えられ、それを囲んで家族が椅子に腰掛けて食事をとるといったものだろう。洋風という形容詞がともなうように、この食卓洋式はそう古いことではない。せいぜい昭和40年代以降のものだ。折から高度成長に乗り、勤労者のための団地が相次いで建てられた。その団地生活を彩る一つの様式として、洋風の食卓が普及したのである。
茶が日本で本格的に飲まれるようになるのは、栄西が茶の苗木を宋から持ち帰り栽培するようになってからである。当初は禅寺の中で、修行の一環として飲まれていたのが始まりらしい。茶とともに点心類も伝わり、茶と点心を用いて茶会が行なわれるようになると、その風習は寺院の内部から次第に一般に広まっていった。
魚肉類を用いず穀物と野菜で調理する精進料理は、日本の食文化の中で長い伝統を有する。日本人は中世の頃まで、魚は無論獣肉も食していたのであるが、徳川時代には獣肉を食わなくなったために、精進料理もそれだけ洗練されるようになった。今日においても、和食に色を添えるものとして、確固たる位置を占めている。西洋風のベジタリアン趣味とは別の意味で、日常の食生活の中に溶け込んでいるのである。
現代日本人の間で行われている宴会は、主催者の挨拶と主賓の礼辞に始まり、乾杯を経て酒宴があり、最後は手締めで散会となる。酒宴の合間には時に応じて芸者の芸や、参会者の下手な余興が披露されて、参加する者たちの退屈を紛らわしたりするものだ。
どの民族も、宴会を巡る文化というものを持っているものだ。宴会を催すには、目的とする行事があり、酒食の体系があり、そして宴会のしきたりとしての儀礼がある。日本もまた例外ではない。日本人は古来、宴会を「うたげ」と称し、節々の行事に合わせてとりおこなってきた。
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